天孫族考 補遺18「大月氏と弓月君などの再考察」
天孫族考 補遺18「大月氏と弓月君などの再考察」
月氏は匈奴の侵略を受けて東西に逃散した。東に行ったのが最後に極東の大八洲(日本列島)にたどり着いた天孫族(月氏和族)であり、西に行ったのが最後にクシャン朝を建てた大月氏貴霜族(月氏黄牛族)である、というのが従来説。
文化人類学的に両者の比較は、文化の伝達と変容の観点から興味深い。
もっとも西へ行った大月氏といっても、実際はタリム盆地から見て最初西北の地に逃れ、その後次第に南遷して、最終的に月氏の原郷から見て西南のガンダーラにまで至った。最終的には西アジアの覇者となったササン朝に併合されて、その後エフタルの侵入や、最終的にはモスリム=アラブ人の征服にあって、月氏の血統は雲散霧消したのである。
この過程を、もう少し整理して見よう。
◯大月氏国の南遷
大月氏国は、タリム盆地を中心に広まっていた月氏が、匈奴の活動の活発化によって、タリム盆地を失陥して、天山山脈を越えてその北西地域に移住して建てた王国である。その後南遷を重ねて遂に西インド地域(というより今の
パキスタンの西部)にまで進出する。その過程は、概念的には幾つかの時期に纏めて見る事が出来る。
第1期 イシククル湖南岸の居留地時代。
タリム盆地から匈奴を避け北上し天山山脈北へ。
ごく一時期の滞留。(BC2世紀前半)
今での難民キャンプの如きものか。出身都城ごと の小集団を組んでいたかと考えられる。
全体の統一権力は未成立な段階。
第2期 シルダリア川中流北岸あたりへ移動。
匈奴と提携した烏孫に追われたもの。
ここで、初めて統一国家の体制を取ったと考えら れる。事実上の大月氏国の成立。(BC2世紀後半)
第3期 シルダリア川南岸のトハリスタンヘ進出。
トハラ人など先住民族を臣下に組み入れた。
中国側からは大夏(トハラ)とよばれた。
張騫が来たのはこの時期かと推定される。
つまり大夏即ち大月氏国というのが漢から見ての 認識だった。(BC2世紀末)
しかし、月氏と服属した周辺部族との人口比では
非月氏の方が多かった。
※トハラ人の他、3種の部族が吸収されたという 説がある。
この前頃、武帝によりタリム盆地に漢が進出し、
対匈奴戦に乗り出していた。
漢は烏孫に公主を降嫁させたりして懐柔した。
この頃、大夏は未だ大宛・康居と並存していた。
第4期 アムダリア中流域に進出する。(BC1世紀前半)
バクトリアを乗っ取る(月氏バクトリアの成立)。
バクトリア人(相当数ギリシャ系人民が含まれる) を組み入れた。この後ギリシャ文字を使用する。
康居もこの頃吸収されたようだ。
西側はパルティア(漢名は安息)の全盛期。
第5期 4(乃至5)翕侯国に分立。(BC1世紀半ば)
何が契機なのかは未詳。
国土が広くなり過ぎた為か?
元の大月氏王家の血統は休密翕侯か雙靡翕侯か? →☆注
第6期 貴霜翕侯による統一期。(BC1世紀後半〜)
他の翕侯国を次々と服従させて行く。
この統一期がどの位の期間であったのか不明。
カニシカ王以前の三代の内、どこで統一が成った のか?統一行動はカドフィセス1世の頃が中心だ という。(AD1世紀前半)
この頃まではバクトラが首都。
大宛(フェルガナ)もこの頃に版図に入ったか。
更に于闐も併合。
第7期 クシャン朝 (AD1世紀後半〜)
カニシカ王時代にガンダーラに遷都する。
大月氏系王朝の最盛期。(AD2世紀半ば)
西インド方面にまで版図を拡大。
カニシカ王の治世はAD2世紀の後半。 この後5代ほど継続する。(3世紀〜4世紀)
ササン朝ペルシャに征服される。(パルティアが先に併合されていた) AD5世紀前半までに
注☆ 休密翕侯は“ミトラ神の休みしし所の翕侯”、雙靡翕侯は“蘇毗の翕侯”と言う事で、共にバラモン階級が治める地であると思われる。
また翕侯は、突厥の諸侯を表す葉護(ヤグブ)と同じだと説く学者が多い。
だが、クシャン朝の貨幣には、クシャン王はシャランシャー(シャーの中のシャー、英語のthe king of kings に相当する)と刻印されているので、翕侯はイラン語風にシャーという呼称ではなかったかと推定される。
翕侯の翕は、とりあえずキュウと読むことになっているが、羽を合わせるの会意で、鷓(シャ)などという発音だったかもしれない。
翕侯は、中国音ではXi-hou とされているが、これは発音すると日本語の奇勝に近いかと思われる。
語頭のk音は、中央アジア-アーリア語系で小(子)を表す接頭語素ではないかと推測する。(ドイツ語のkindはk+ind で子供を意味する。英語はkid。)
すると意訳すれば少将という位階用語に相当する。将は将軍の意味でもあるが、秦氏(月氏白馬族)では勝は頭領を意味した。太秦は大勝であるので小勝は小シャー(コシャー)であろう。小将→ Xi-hou→ 翕侯か。
小谷仲男氏は、翕侯とは、
“独自の支配地域と民衆を率い,同族の大王,単于,可汗などから半ば独立した 部族集団の長を呼ぶものと考えられる。康居伝では「康居有小王五,......凡五王属康居。」(『漢書』西域伝,康居条)とあり,小王が翕侯に相当するものであろう。”
との見解を示している。
そしてこの翕侯は、いつ頃(大月氏国内で)成立したのであろうか?
恐らくバクトリアを領有した第3期の頃ではないだろうか。国土が広くなり統治の為に、王の下に諸侯としての翕侯を置いたのであろう。
その翕侯が次第に力を持って分国化していったのが第4〜5期であろう。
敦煌近辺に漢の設置した駅家(=懸泉置)の遺跡で出土した木簡では、前43年に雙靡翕侯の家臣が漢への使者をした記録がある。その後に休密翕侯の使者を記した木簡もある。
※この木簡の出土は画期的なものだった。我々は、「漢書」の記述で、それら翕侯国の存在とその名前などを知っていたが、漢書が記述されたのは百年程後世の後漢時代の事であり、一方木簡の方は同時代資料なのである。
班固の漢書での記述と全く同じ漢字名称の翕侯国の存在が確実に証明されたのである。
翕侯は次第に独立性を強めて行った。分国が領邦国家化して行ったのだ。
こうなると、支配者間も疎隔化し、また吸収した非月氏系民族の人口も多くなって、翕侯国間の親近感は希薄になってしまったと考えられる。そうなれば、覇権を争う事になり、第6期の騒乱期を経て、最強の貴霜国が勝利したのがクシャン帝国になる。この国は、支配者は大月氏系だが、国民の多数はトハラ人だったとして、学者によっては“クシャン=トハラ朝”と呼ぶ。
中国では、クシャン朝も依然として大月氏の国だとしているが、実態は月氏直系性は薄くなっていたと、昨今は考えられ出している。
(中国で一旦統一王朝を開いた周の諸侯が次第に地方政権として独立性を強め、春秋戦国時代に突入したのにも似ている。)
但しクシャン朝が併合したガンダーラは、アケメネス朝時代から月氏黄牛族(クシャトリア)の領邦だったと思われる。またカニシカ王は、于闐出身という説もあり、王家は月氏だったというのはかなり確実だろう。
考えてみれば、大和王権下でも、和族の王家の下には、元月氏系の出雲族や秦氏もいたが、人民の大多数は弥生時代以来の元縄文族と海人族とであったわけである。
その第7期の時代に並行して、韓半島では斯羅國が新羅と国名を新たにして半島の覇権を獲得する戦争を起こしていく。この斯羅國も、大月氏の貴霜国同様に、(小月氏系)クシャトリア階層が支配する国家だった。
クシャトリアはそもそも武装集団だから、他の階層を実力で圧倒していくのは、歴史的必然でもある。
時代は下るが、我が国で、天皇家と藤原家(バラモンの下僚出身)を平氏そして源氏の武家(クシャトリア)が奪権していくのも同様である。
さて私は、同じ月氏にルーツを持つのだから、大月氏国と日本国との間に、相当の共通性がありはしないかと考えて、これまでなるべく大月氏国関連の情報も収集に努めて来た。
しかし、これだけ形成過程と地政学的な差異を考慮すれば、両者の共通性はほとんど希薄だと考えざるを得ない。
それは大月氏国では次第に月氏系の血族が少なくなっていった事情にも理由がある。
強いて共通性と言えなくもないのは、両者ともに仏教を受容する精神的な性向を有していたという点だろうか?
(とはいえトハリスタンは原住民だったソグド人が優勢になるとソグディアナと呼ばれるようになったが、そこではゾロアスター教系のアナヒータ女神への信仰が中心となった。ササン朝がゾロアスター教を国教化して、周辺諸国にもその影響が及ぶようになると、仏教は退潮し、代わって西方からマニ教や景教などが西域諸国にも及んだ。こうして、精神性の上でも、共通性は希薄になって行き、最早遺物を通してしか、仏教受容の共通点は認識できなくなってしまった。クシャン朝が滅びると、東西貿易の主役は于闐の月氏白馬族からソグド人が担う様になって行った。)
また一時、楼蘭文書などカロシュティ文字文書が発見されて、その研究が進めば、大月氏国との間の共通の風俗習慣などが判明するかと期待したのだが、カロシュティ文字(トハラ文字)の解読で知れるであろう西域の風習といえど、小月氏系の日本との間での共通性の発見は恐らく期待薄であると、今は考えるようになった。
とはいえ、トハリスタンやバクトリア地域の考古学的な遺跡の発掘が進み、これらの乾燥地域では農業を営むためには灌漑が必須なのだが、古代から灌漑施設や水路が充実していた事が分かって来ている。この意味では我が国の員弁族のルーツとの共通性が認められるかもしれない。
(カナート水路の存在などが、我が国のマンボのルーツではないかと言う。)
メソポタミアやインダス水系に起源があると想像される“輪中”の治水技法はどの様に伝播して来たかなども。
今後、崑崙北麓の治水遺跡などが明らかになる事が期待されるのだが、ここは新疆ウイグル自治区であり、政治的には漢民族が搾取と民族浄化を強行しているので、現中国が漢民族以前の先住民族の文化を科学的に証明しようとする気があるのかは、果たしてわかったものではない。
◯大月氏の原郷についての異説
さて、ここまでは従来の通説に従って大月氏・小月氏について論述して来た。しかるに、ロシアやその学統を継ぐ中央アジアの西トルキスタン諸国の考古学や歴史学者の中には、異説が出されている。
通説では、月氏はパミール高原とその北東部のタリム盆地を原郷とした民族だとされて来た。これは中国古代からの認識(主に漢書)に基づく。
しかしその異説では、月氏とは元来シルダリアとアムダリアの間の地域即ちソグディアナを原郷とするソグド人の一部族であり、それが民族の空白地域だったパミール高原からタリム盆地に進出した。ところが匈奴の西進を受けて、本来の原郷の地域であるトハリスタンに戻って来ただけだ、とする見解が示されているのだ。
そして、いわゆる小月氏は元々南山高原(=青海高原)にいた羌族系の民族であり、それが西から進出して来た月氏の支配下に入り文化的にも影響されたのであって、小月氏は大月氏(トハラ人)とは異なる民族だというのである。
これが、大月氏国の彫像などに残る西アジア的な面相の特徴と、小月氏の末裔である東チベットの蘇毗族系の東南アジア的な顔相の特徴との間の差異の説明になる、ともいう。
成る程、我が国の和族や出雲族系の氏族の間には、アーリア的な人種特徴は見られない。また同じ小月氏クシャトリアである新羅でも同様である。
この異説は慎重に検討していかねばならない。
とはいえ、中国大陸の雲貴四川奥地方面に残存する少数民族である白馬(ベイマ)族などの女性を見ると、かなり中央アジア的な面相も残している様に見える。
民族が大移動をして先住民と混交すると、身体的な特徴は優性の遺伝子の影響を受けるので、相当に変化して行く。例えば青い目と黒い目、金髪と黒髪では後者が優性である。(優性というのは、優良である事は意味しない。むしろ優性遺伝子の発現が、見た目的には非優性=劣性だという事はしばしば起きるのである。)
西トルキスタンは民族のルツボであり、今はほぼトルコ系民族が主体となり大月氏系の部族など全く消滅してしまった。この為、小月氏系民族のDNAは相互比較できるが、大月氏系との比較は不可能である。
可能性は考古学的遺物に残る文化的な特徴同士の比較に於いてだけしかない。
だが今のところ、異説を否定する遺物も出土していない。また通説を補強する決定的な遺物も発見されていない。
仮にこの異説通りで、大月氏と小月氏は別の人種で、ただ同一地域に同時に隣接もしくは混在していた為、あたかも同種の民族であるかのように文化的に(宗教や風俗習慣が)混淆していただけであったとしても、彼ら内部で同じ民族になったという自覚があり、しかも中国から見て一つの民族だと認識されたのだとすれば、それは一つの民族である。民族と人種は別概念なのだ!
現に、ユダヤ人はおらずユダヤ民族しかいない!というのは、ユダヤ教を信仰するのがユダヤ民族だからである。(もっとも、本人がユダヤ教徒ではなくても親のどちらかがユダヤ教徒ならユダヤ人の扱いになる国もある。)
またアメリカ国民はいてもアメリカ人という民族・人種はいないというのは誰もが理解している。ところが、インド国民はいてもインド人という民族はいないというのが、日本の多くの人は理解していない。インドは他民族社会であり、国語とされている言語も複数あり、また宗教も多数派のヒンズー教のほかシーク教など複数ある。そしてインドではこれに更にカーストの違いまでが入ってくる。
もっと言えば、昨今では、ラグビーの地域代表選出が英国ではイングランド・スコットランド・ウェールズとなっている事や、ECからの離脱を巡ってスコットランドの独立が主張されるようになって、英国とはブリテン島の(複数の国の)連合王国であるとの理解が進んで来た。
しかしイタリア国民はいてもイタリア人という人種はないという事は殆ど理解されていない。イタリアが王国として統一されたのは、日本の明治維新より少し前のことであった。それまでは、古代ローマに於いて同一帝国内にあったという事を除き、ナポリ王国やシチリア王国(スペインのバルセロナ公国の構成領土だった)やトスカナ共和国、ミラノ公国、ベネチア共和国、トリノ・サルディニア王国、ジェノバ共和国などなどの複数の国家に分かれていたのである。唯一の共通性はローマカトリック教会の信徒であっただけであり、ナポリやシチリアでは一時スペイン語が公用語だった。
今のイタリア語は、トスカナ共和国で使われていた言語を共通語として採用したものだ。
従って今でも、ローマ以北の地域とナポリ以南の地域では、文化習俗的な差異が大きく、また産業構成もかなり違っている。イタリア統一王国の芯になったのは、ピエモンテのトリノ公国であるが、このトリノ公は元来は中仏
のサボア公国に出自するので、元来はフランス系である。
だから統一イタリア王国は、当初の首都はトリノであり、その後ミラノ公国を併合して一時ミラノに遷都し、更にローマなどイタリア半島中心部を併合してローマに遷都したのである。
だから北部連合はイタリア南部の各州を低く見て、分離独立を主張する事が今もって継続している。だからイタリア国民は、国の南北が同一民族だとは、本音では考えていない。(このコロナ禍の際にも、一時南北の交通を遮断するなどという地方州があったりした。流石にこれでは中国と同じであり、まずいというのでこの種の報道は抑制されたようだ。)
しかし、私の個人的体験からすれば、言語統一後も、指先のジェスチャーなどノンバーバル身体表現は、(ローマを含むラティオ州を挟み)南北で全く異なっている。南部は対岸のアフリカ北岸と同じである。
ドイツが近代まで領邦国家の連合体だった事は、世界史を習った人は知識を持っているが、一時の東西ドイツの分裂時代も含めて、ベルリン付近に住む旧プロシア公国人と、ミュンヘン地域の旧バイエルン王国人とは、国は違うが民族・人種は同じドイツ人(ゲルマン)だという相互認識はあった。
このドイツの領邦国家間の違いよりもイタリア半島の旧各国の違いの方が遥かに大きいのである。ミラノやその周辺の諸公国は旧神聖ローマ帝国以来の習慣の延長で、近世まではオーストリア皇帝に臣従していたのである。
我が国でも、琉球民族は、やむを得ず日本国に併合された状態を維持しているのだが、彼らは日本内地人をヤマト民族と呼んで自分達沖縄人とは区別している。(人種は同じだが民族が違うという認識の例である。これはイベリア半島のマドリードを中心としたカステリヤとバルセロナを中心としたカタロニアが、異民族だという認識にも似ている。人種的には近いのに中世の国家が違いまた本来の言語も、カタラン語はフランス南部方言に近いのである。またスペインでもバスクは民族も人種さえ異なっている。更に
ポルトガルとスペイン=カステリアとは多数派は人種的には近く、むしろカタロニアよりも近いかも知れないが、言語は異なり相互に同一民族とは思っていない。一時は両国も同君連合国家だった。)
またベルギーでも、ブリュッセルに近いワロン人はフランス語を母語にし、北部の海岸地帯のフランドル人はオランダ語の方言が母語であり、共にベルギー国民だとは思っていても異民族同士だと考えている。
この様に外形的に見て、同じ国家内にあったり、同系の人種だと見えても、民族としては別であることもあるし、逆に今は国を異にしても、同一民族だという認識を共有する場合もある。(後者の例は、アイルランドと英国の北アイルランドや、フィンランドとエストニアなどがある。モンゴル共和国と中共に併合されている内蒙古もそうである。)
だから、先述の“異説”の様に、大月氏と小月氏が別の人種の出自であったとしても、一時的に同化して、中国や周辺諸国から同じ民族と見做されていたと言う事が重要なのだ。そしてその場合、一体視される要因、またその“民族”
内部の相互のアイデンティティは何だったのかは、よく研究してみる必要があるのだ。
◯ソグド人の事
バクトリア→クシャン朝の時代には、ソグディアナは大月氏の王朝の支配下にあったが、クシャン朝が滅びて、ガンダーラやアフガニスタンがササン朝の版図になってから、ソグド人の活動が歴史上最も顕著になる。
漠北はチュルク系の突厥が俄に全盛となるが、まもなく東西に分離する。ソグド人はこの西突厥の配下になった。5もしくは6世紀以降のことである。中原は隋に代わって唐朝が成立し、2代目の皇帝高宗は、漠北の民族から天可汗の称号も得て、中国だけでなく漠北も統治する名目となった。これは、元来唐の出自が遊牧民の鮮卑拓跋族であり、北朝の北魏の大義を継承しているという名分があったからだ。この為、唐は草原地帯北部から南下して来たチュルク族には本能的な警戒感を持っていた。
唐との抗争に備える為、突厥は西南アジアの覇者であるササン朝とは和睦を結んでいた。これはササン朝にとっても、その頃メソポタミアの覇権を巡りビザンチン帝国との間に、熾烈な戦闘を度々構えていたので、東方の突厥と
は友好関係を結びたかったから、都合が良かったのだ。
こういう情勢だから、ヨーロッパ方面との交易(いわゆるシルクロード貿易であるが)メソポタミア〜イラン経由〜西域南道という于闐を経由するルートは衰えることになった。この時、ササン朝と西突厥の干渉地域にいたソグド人
が東西交易の中心に躍り出るのである。彼等は突厥支配者層へ貿易の利益を分与する事を条件に、天山北部方面に居住を認めさせ、天山北路を経由して長安に至る交易路を安堵してもらう。
つまりシルクロード交易は、その頃はビザンチウム〜カスピ海南岸地域〜ソグディアナ〜天山北路というステップルートが中心となったのである。
この結果、唐から見て西域商人はソグド人の事となり、彼らこそが“胡人”と呼ばれる様になったのである。この胡人という呼称は、周知の様に我が国の奈良朝にまで伝播された。
そこでこのソグド人が、上古に月氏の元になった民族であったという先述の“異説”についてであるが、彼等の宗教は従来のゾロアスター教であり、特にアナヒーター女神を崇拝していた。アナヒーターは太陽神ミトラの母神だと
いう神話がある。この面ではある意味でアナヒーターには天照大神を連想させる面がないとはいえない。
しかし、この頃のソグド人の天山北方草原地帯の居住地の考古学的遺跡には大きな階級差があったという証拠が無い。その活動形態を見ると、バイシャ階層そのものに見える。クシャン朝時代、クシャトリアは殆どが王族や翕侯
とその家臣に集中し、ソグディアナにはバイシャしか残らなかったという解釈も考えられる。また治安維持は突厥貴族が担っていたであろうから、ソグド人にはクシャトリア(武家)は必要無かったであろうし、また武装勢力があれば返って突厥から危険視されただろう。
突厥領内のソグド人居留地では、盗賊を防ぐために邸宅は小さな城館の形をとっているが、それらはある地域に散居しており、複数の城館や邸宅を囲む城郭は作られていない。また大規模な城砦も持っていないので我が国の戦国
時代の“総構え”に匹敵するような形にはなっていないのである。あくまでも大商人の館である。
またゾロアスター教の複数の神を祭祀していたから、バラモン層も少数は存在したであろう。しかし、バラモンがクシャトリアを抱えるという様な階級構造は今のところ見られないようだ。
こういう点を考えると、原ソグド人が月氏になったという“異説”は、私には首肯し難い。
またこの天山北西部の大月氏国の版図の中に、弓月国という城塞都市があり日ユ同祖論を唱える人の中には、これが元パレスチナのユダヤ族の一部がメソポタミアの戦乱を避けて東遷し建てた都市国家であるとの主張があるようだ。しかも、その弓月という名の同一性から、「応神朝に日本へ渡来して来た弓月君とは、その弓月国の君主であり、この弓月国の亡命者が秦氏の元になった」という立論もなされている。
だが私はこの考え方には疑問を持っている。もしも、その人達が主張されるように天山北西に弓月国があったとしても、これをユヅキと読むのは日本流であって、漢字の古い読みからすればキューゲツとかそんな呼称になろうかと思う。私はこの弓月国というのは、別の漢訳表記の“休密”(翕侯)国の事ではないかと推理するのである。
万一、逃れて来たユダヤ人が大月氏国に臣従して“休密”翕侯国を建てたというなら、それを全否定する論拠は持っていない。
しかし先述の様に、漢の駅家の通過記録の木簡に、雙靡翕侯と並んで“休密”翕侯の使者が大月氏国領域から長安に通ったという文字が残されている。
さりながら、漢の役人はその両国が共に大月氏国の諸侯の統治する分国だとの認識を持ってはいる様だが、特段両国の差異がある様には書いていない。
もし“休密”翕侯国がユダヤ人の国だというなら、両国の使者の身体的な或いは面相上の・もしくは風俗上の特徴や差異などについての言及があったとしてもおかしくはないが、その様な言及は無い。つまり等しく大月氏国の使者として記録されているだけなのだ。
(また使者は漢字名を名乗っていたかに見える。)
先に紹介した小谷仲男氏は、この漢の駅家(敦煌近郊)を通過した両翕侯国のほかに、その上位の大月氏王がいた筈だと言っておられるが、翕侯(小将)の上の大王の使者の通過の記録は、私は確認できなかった。但し、小谷氏はそれを木簡記録の中国での出版物から見ておられるのかも知れない。
もっとも、渡来人の弓月君が秦氏の祖だというのは、「新撰姓氏録」編纂の際に山城の秦氏のごく一部がその様に主張したという記載があるだけであり、来日時の応神紀など、記紀の記述には一切それがないのである。
多くの学者は「新撰姓氏録」の記述を元にして、あたかもそれが常識の様に扱って来た。(恥ずかしながら私も一時そう理解していた。)
しかし、平安期に編纂された「新撰姓氏録」は、それぞれの氏族の祖先伝承を聞き取っただけであり、それが正しいかどうか考証はされていないのだ。
ある地域の同族が「新撰姓氏録」編纂時の自己申告を前に談合して、その一族の祖先名を統一したという事(=口裏合わせをした事)は十分考えられるのである。勿論、そうする理由は箔付けの為である。
これは辰韓が自らの祖先を秦の王族だとして秦韓と名乗ったことと同工である。ハタ氏が、同様に秦の王族の末裔を僭称し、氏族名に秦の字を用いたのであり、私は「天孫族考」本文で述べた如く、ハタの名は、彼等の原郷が「和田(=于闐)」Khotan であり、そのホータンの名をハタとして留めているのだと考えて来た。
山城の秦氏が祖先名を融通王としたのだが、そこに“一云弓月王”という注記があり、これが融通王=弓月王=弓月君だから、弓月君が秦氏の祖だとされた事の理由になったのだ。しかしこの事は、もう少し別の角度からの検討を要すると考えるのである。
つまり、応神朝に葛城襲津彦によって連行されて渡来した弓月君とは一体何者なのか?という問題になる。
この分析の為には、一見迂回と見えるが、黒媛伝承を考究する。
◯黒媛伝承と、羽田矢代宿禰と弓月君について
去來穗別天皇、大鷦鷯天皇太子也。(去來、此云伊弉。)母曰磐之媛命、葛城襲津彦女也。大鷦鷯天皇卅一年春正月、立爲皇太子。時年十五。
八十七年春正月、大鷦鷯天皇崩。太子、自諒闇出之、未卽尊位之間、以羽田矢代宿禰之女黑媛欲爲妃。納采既訖、遣住吉仲皇子而告吉日、時仲皇子冒太子名、以姧黑媛、是夜仲皇子忘手鈴於黑媛之家而歸焉。明日之夜、太子、不知仲皇子自姦而到之、乃入室開帳居於玉床、時床頭有鈴音、太子異之問黑媛曰「何鈴也。」對曰「昨夜之非太子所齎鈴乎、何更問妾。」太子、自知仲皇子冒名以姦黑媛、則默之避也。
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訳
去来穗別天皇(イザホワケノスメラミコト=漢風諡号履中帝)は大鷦鷯天皇(オオサザキノスメラミコト=仁徳帝)の太子である。(去來、これは伊弉=イザと云う)
母は磐之媛命(イワノヒメノミコト)。葛城襲津彦(カヅラキノソツヒコ)の娘である。大鷦鷯天皇の即位31年の春1月に、皇太子に立てられた。
その時、去来穗別は年齢15歳であった。
即位87年の春1月に大鷦鷯天皇(=仁徳)は崩(カムアガリ=崩御)した。太子は諒闇(ミモノオモイ=喪中の期間)から出たが、まだ尊位(タカミクラ=帝位)に即いていない時のことである。羽田矢代宿禰(ハタノヤシロノスクネ)の娘の黒媛(クロヒメ)を妃にしようと望まれた。納采(アトフルコト=結納)が既に終わり、住吉仲皇子(スミヨシノナカツミコ)を派遣して、吉日(ヨキヒ)を告げさせた。その時、仲皇子(ナカツミコ)は太子の名を偽り、黒媛を犯してしまった。この夜、仲皇子は手鈴を黒媛の家に忘れて帰った。翌日夜、太子は仲皇子が犯したことを知らずに黒媛の家に到着。部屋に入り、帳(トバリ)を開けて、玉床(ミユカ)に座した。床の端に鈴の音がしたので、太子は不思議に思われて、黒媛に問いかけた。 「この鈴は何か?」 黒媛は答えた。 「昨夜太子がお持ちになられた鈴ではありませんか? 何故わたしに、今更そのようなことを問われるのですか?」
太子は仲皇子が名を偽って黒媛を犯したことを自と知り、黙ったまま黒媛をそのまま遠ざけて還御した。
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この事件後、弟の仲皇子が反乱を起こし、難波宮を焼き討ちし、去來穗別は一時危機に陥る。
発覚を恐れた住吉仲皇子が履中天皇を殺害しようとしたのだ。なんとか平群木菟宿禰・物部大前宿禰・阿知使主らの助けで逃げる。石上振神宮へ移動。そこで弟の瑞歯別(後の反正帝)に住吉仲皇子の殺害を命じる。瑞歯別は仲皇子の家人で隼人の刺領巾に命じて仲皇子を殺させる。瑞歯別は、主君殺害の罪ありとして、寝返った刺領巾を殺害してしまう。
(履中天皇は即位元年2月、磐余稚桜宮で即位する。 以下がその続きである。)
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元年春二月壬午朔、皇太子卽位於磐余稚櫻宮。夏四月辛巳朔丁酉、召阿雲連濱子、詔之曰「汝、與仲皇子共謀逆、將傾国家、罪當于死。然、垂大恩而兔死科墨。」卽日黥之、因此、時人曰阿曇目。亦、免從濱子野嶋海人等之罪、役於倭蔣代屯倉。秋七月己酉朔壬子、立葦田宿禰之女黑媛、爲皇妃、妃生磐坂市邊押羽皇子・御馬皇子・靑海皇女。一日、飯豊皇女。次妃幡梭皇女、生中磯皇女。是年也、太歲庚子。
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即位元年2月1日。皇太子(去来穗別皇子=履中帝)は磐余稚桜宮(イワレノワカサクラノミヤ)で即位された。
夏4月17日。阿曇連濱子(アズミノムラジハマコ)を呼び寄せ、詔(ミコトノリ)して言われた。
「汝、仲皇子とともに反逆することを謀り、国家(クニ)を傾けようとした。その罪は当に死に値する。しかし大きな恩があるので死を免じ、墨(ヒタヒ キザムツミ=顔の刺青)を科すことにする。」
その日、黥(メサキキザム=目に刺青)をさせた。
これにより、時の人々は阿曇目といった。また、濱子に従っていた野嶋の
海人たちの罪も許して、ヤマトの蔣代屯倉(コモシロノミヤケ)で懲役とした。
秋7月4日。葛城葦田宿禰(アシタノスクネ)の娘の黒媛を立てて、皇妃とした。妃が産んだのは、磐坂市辺押羽皇子(イワサカノイチべノオシハノミコ)、御馬皇子(ミマノミコ)、青海皇女(アオミノヒメミコ) ;ある伝によると、それが飯豊皇女(イイドヨノヒメミコ)という。
次いで(別の)妃の幡梭皇女(ハタビノヒメミコ)が中磯皇女(ナカシノヒメミコ)を産んだ。この年は太歲庚子であった。
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さてこれが、履中妃の黒媛を巡る伝承である。
そこで、仲皇子に犯された羽田矢代(波多八代とも)宿禰之女黑媛と、履中皇妃になった葦田宿禰之女黑媛とは、
①別人なのか(つまり黒媛の名の美女がたまたま従姉妹同士で二人いた。羽田矢代宿禰と葦田宿禰は共に葛城襲津彦の息子なのである。また履中は襲津彦の娘である仁徳皇后の磐之姫の子であるから、黒媛は姪に当たる。)
②同一人物である。というのは葦田宿禰と羽田矢代宿禰は同一人物の別名だとの説があるからだ。(葦田矢代宿禰=波多八代宿禰だという説)
③同一人物だが、羽田八代宿禰の娘黒媛は仲皇子に犯された過去があるので、兄弟の葦田宿禰の娘ということにして、仲皇子との一件は黒媛の非は無いから許して、改めて皇妃に立てた。(葦田宿禰と羽田宿禰は別人との説)
この場合、黒媛に対する履中の執着は大層強かったということになる。二人の皇子が取り合うくらいだから黒媛は当時抜群の美女だったのであろう。
こういう兄弟の妃を奪う話は、天武と天智の間の額田王の件もある。
ここで、長々と黒媛の問題に拘ったのは、羽田八代宿禰が羽田臣・星川臣・淡海臣や長谷部君の祖ということになっており、この羽田臣は(恐らく畿内の)秦氏の祖だとする伝承があるからだ。
だが、羽田氏(波多とも)は臣姓だが、秦氏には臣姓はないのである。
畿内の秦氏の姓は忌寸が最も多く、次いで公、首、造である。これらの中で長谷部氏だけが君であるのが目を引く。→太秦公氏については後述する。
また別の伝承で、長谷部氏は、初瀬に封じられた弓月君の後裔だというものがある。
葛城襲津彦が南韓遠征から連れ帰ったのは、まず最初は新羅に脱出を妨害されていた弓月君で、後から弓月の人夫(ヒトドモ、タミ)を多数渡来させたということに、記紀ではなっている。
(別の説では、応神14年に弓月君自身が来日して、自分の民が新羅の妨害で来日できないので支援してくれと訴えたことになっている。その場合は、弓月君は再び加羅に渡ったのか、支援の訴えをしたのは本人ではなく代理だったのか?本人自身は天皇の保護で日本に留まっていたのか?ここのディテイルは不明であるが、新撰姓氏録には後述の様に一旦加羅に戻ったような記載がある。しかしリスクを考慮すれば、本人が来朝していたのなら韓地には戻らないだろうから、支援を訴えに来たのは別の者だったのではないか?)
そうすると、羽田八代宿禰の子孫でもある長谷部君が弓月君の子孫でもあるというのはどういう事なのか?
この謎に対して、
1) 羽田八代宿禰は、弓月君の子であるが、葛城で育ち、襲津彦の養子になったというもの。
2) 羽田八代宿禰がそも弓月君で、保護した葛城襲津彦が、任那に残っていた和族の同族だからとして、自らの一族に組み入れた。
3) 羽田八代宿禰は、葛城襲津彦と弓月君(辰韓もしくは任那の王族であり、和族の同族で、実は女性)との子であるというもの。
※但し、羽田八代宿禰を葛城襲津彦の兄弟として、葦田宿禰の叔父とする系図もあるが、羽田宿禰と葦田宿禰が同時代人であり、襲津彦は葦田宿禰の親即ち一世代上になるので、私は羽田宿禰は葛城襲津彦の子の世代だと考えるのである。もっとも長江襲津彦は初代襲津彦の子(二代目)との説もあるので、長江襲津彦が葦田宿禰である可能性もあるのだ。実は、襲津彦は武内宿禰の五男だとの説があるが、末子相続性を考えないと襲津彦が武内宿禰の子達の中で最も活躍しているのが理解しにくい。また長江襲津彦の兄であるとされる平群木菟宿禰が履中即位前に登場しているので、襲津彦の兄とは思えないのである。
さて第3の説であれば、記紀にいわれる様に、襲津彦が南韓遠征からなかなか帰らなかったという事の理由にもなってくる。だから、その血を継ぐ長谷部氏は君の姓であり、羽田八代宿禰も葛城臣の子だから羽田臣なのである。一方、襲津彦が帰国の際に連行した弓月の人夫(タミもしくはヒトドモ)は、弓月君の家人=部民であり、従って臣姓ではなく忌寸や首の姓になる。そういえば新撰姓氏録には例外的に秦連という姓もあったように記憶する。
いずれにせよ、本来の葛城氏の直系ではないから、大臣を出す葛城氏の家系にあって羽田八代宿禰の家系からは大臣は出ていない。大臣はあくまでも武内宿禰(私説ではヒノモトタケル)の直系五氏から出されるのだから。(つまり葛城、平群、巨勢、紀、蘇我の五氏である。)
弓月君が女性だというのは、キミの呼称には額田王の様に女性のものがあるからだ。但し、女性で君を呼称するのは、それなりの身分資格があると思われる。ある特別な氏族の女性首長や特別の権能を持つ女性=巫女だったのではないだろうか。(琉球の聞得大君もそうだ。)
本来ならば、息長帯姫(神功皇后)なども息長君と呼ばれる資格があったのではないだろうか。宇佐の息長大媛は祭神の名になっている。私は息長帯姫は、近江の息長氏(出雲族と共に渡来)ではなく宇佐のそれだろうと考えている。
但し、弓月君については、新撰姓氏録の秦氏関係の記述の中で、左京諸蕃とされる太秦公宿禰の記述の中に、秦の始皇帝三世の孫が孝武王、そしてその男(=男子)が功満王(仲哀天皇時に来朝)とあり、応神14年来朝者はその功満王の男融通王だが、そこに“一云弓月王”とあるので、もし弓月君の別名が融通王であるならそれは男性という事になる。
ところが、山城国諸蕃に記載される秦忌寸の項では、太秦公宿禰同祖秦始皇帝之後世とだけあって、いきなり応神14年の記事として功智王、弓月王の二人が来朝して上表したが、更帰国とあった後に百廿七縣の伯姓(これは太秦公宿禰の記事には百姓とある)それを率いて帰化したとしている。
※通説では功智王は功満王と同じだというが、功満王は仲哀の時に来朝して滞留していた筈だから、功智王と弓月王の二人は共に功満王の子ではないかと思う。そして、むしろ功智王が融通王だったのではないかと私は思料する。つまり融通王(男)と弓月王(女)の兄妹もしくは姉弟ではないか?弓月王が功満王の男女どちらかの子かという記載は書紀にはないのである。
(もっとも弓月王が男だとして、弓月君はその娘だという解釈もあり得よう。
また功智王は功満王とは別人というのは、大和の秦氏の一族に己智氏があり、これが功智王に因む名だろうと考えるからだ。→後述)
そして、その子孫について男真徳王、次いで普洞王(古記に云う浦東王、ホトウオウか?)とある。その間、仁徳朝に波陁の姓を賜ったとあり、今の秦の字の訓也と注記されている。それがその「秦」を稱するのは雄略朝の普洞王の時からであるとする。また秦の民が各地に分散して他の氏族の劫略の対象になっているので、勅使の小子部雷に命じて大隅阿多の隼人を手先として、分散した秦部の所在を纏める作業をさせた。その結果、秦の民92部1万8670人の情報を得たので、普洞王の男秦公酒にその統制を任せた。(真徳王〜普洞王〜秦公酒は、仁徳〜雄略まで大王は数代を数える。丁度中国南朝の倭の五王時代に相当する時期である。)
酒は、それらの民を指揮して養蚕織絹などの産業を盛んにして得た利益の財貨を朝庭に山の如く(うず高く)積み上げて貢進した。
雄略帝はこれを嘉して酒に禹都万佐の称号を与えた。またそれらの貢進物を収納する為に、長谷朝倉宮の側に大きな蔵を作らせ管理の官員を置いた。大蔵の制度の初めであり、秦公酒をしてその長官に任じた。更に都に秦の民を居住させて代々大蔵の吏員とし、また諸行事などに従事させた。これらの民は分かれて複数の家族に増えた。そこで後世の天平廿年に、京畿にある者には伊美吉の姓を下賜した、という。
この様な来歴が、山城国秦忌寸の各氏が申請した内容である。
秦公酒について云えば、初代の太秦だというだけでなく、東近江から伊勢に通って水銀の商いに従事した者もしくはその子という伝承がある。普洞王は浦東王の別名だとのだというが、浦東というのは後世いうところの湖東ではないだろうか?だから水銀商売は普洞王の頃から手がけていてその利益の貢献を前提に雄略に各地の秦の民の管領権を要望したのではないか?とも考えられる。
こういう実態からすれば、畿内の秦氏は生来の商工民だったのであり、とても彼らが僭称する様な秦の始皇帝の末裔とは思えない。(むしろ始皇帝が派遣したという徐福の子孫だと言った方がまだ信憑性がありそうだが、秦氏の申告には徐福との関係は出てこない。)
そして、こちらの申告内容は、やはり太秦公と秦忌寸に関わるものであって、羽田臣との重なる部分は極めて少ない。例外が、長谷と星川(都祁の一地域名)に居住する同族と思しき部族になる。
そして、この長谷部君と星川臣は共に、羽田八代宿禰を祖にしている。
仮に弓月君が功満王の子であるとしても、その子が真徳王なのは融通王の方であり、弓月君ではないとも考えられる。
私の想定の様に弓月君(或いはその娘)が功満王の子(孫)だとするなら、それが葛城長江襲津彦の妻妾の一人となって、庶子の羽田八代宿禰を儲けたとすれば、庶子であっても葛城大臣の一族であるから羽田臣の姓は自然である。つまり秦氏と同根ながら、秦直系と和族の雄である葛城系の二系に分かれたとは考えられないだろうか?---------というのが私の仮説である。
そして右京諸蕃に載る太秦公氏であるが、河内の秦下島麻呂が天平14年に、正八位下から従四位下に異例の特進をしたことが「続日本紀」に記載されている。それは聖武による恭仁宮遷都造営に功があったとからとして、造宮録の
官位から造宮輔に任じ、かつ太秦公の姓を賜った事が載るのである。
だが河内の秦下郷は秦人の住地だが、決してその本流ではない。つまり聖武による特進で成り上がった一族なので、箔付けに色々祖先を仮冒したという可能性が考えられるのだ。
太秦公を名乗らせたのだから、一時秦氏の頭領である太秦の地位に就いたのかも知れない。しかし本来の太秦=秦氏の頭領家は秦河勝の系統であったと考えられている。この後、桓武朝に平城遷都に協力した山城の葛野の秦氏は河勝系だったとされるからだ。
※己智氏について
Wikipediaでは、
>>「己智」は古代朝鮮語で、おそらく首長を意味する語に由来する。
>>己知、許智、巨智とも書く。
と説明されている。これは古代朝鮮の官位に“叱智”や“干岐”があるからの連想であろうが、果たしてそうだろうか?
上述の様に功智王の音の方が近い。
また、続いて次の説明をあげている。
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>>『新撰姓氏録』の己智条(三一ニ - 九四〇)には、次のようにある。
>>己智。秦太子、胡亥 自(よ)り出づ。
>>佐伯有清に拠れば、『新撰姓氏録』における己智氏の本拠は、
>>大和国添上郡楢中郷(ならなかのごう)(奈良県天理市楢町)だったという。
※楢己智氏とも言ったようだ。また奈良己智とも。秦氏と同族だという。
>>なお、『新撰姓氏録』の細分でも確認できるとおり、己智はあくまでも
>>漢民族に出自する。
※→というが、これは単に秦の王族の末裔という秦氏の申告を容れただけだからである。実際は後述の様に新羅系。
>>また、同書には三林公(みつはやしのきみ)、長岡忌寸(ながおかのいみき)、山村忌寸(やまむらのいみき)、
>>桜田連(さくらだのむらじ)が己智の同祖とある。
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※のコメントは私=鈴木のもの。
これについて故大和岩雄氏は、
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日本書紀には、新羅に加えて高句麗・百済も服属を誓ったこと、新羅王は王子の微叱己知波珍干岐(みしこちはちんかんき)を人質にだしたことが記される。
神功皇后 摂政5年(205年または325年)3月7日に新羅王の使者として、汗礼斯伐(うれしほつ)、毛麻利叱智(もまりしち)、富羅母智(ほらもち)らが派遣され、人質として倭国に渡った微叱旱岐(みしかんき)の妻子が奴婢とされたので返還を求めるとしてきた。神功皇后はこの要求を受け入れ、見張りとして葛城襲津彦を新羅に使わすが、対馬にて新羅王の使者に騙され微叱旱岐に逃げられた。
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という事件があり、この記事に相当する新羅側の記録が「三国史記」にある事から、この人質になった微叱己知の従者等の新羅人が大和に残っていて、やがて帰化したので、己智氏の名を用いた。やがて、雄略朝に秦人を纏めた時に辰韓系として秦人に入れられたのではないか?との推理をされている。
またこの微叱己知が、後世に、秦人から功満王や己智王などというイメージにされて、祖先系譜に挿入された可能性がある事を指摘されていた。
つまり秦氏の中には、明確に百済系の漢人(アヤヒト)と証明されない、加羅(弁韓)や辰韓系の渡来人が、纏めて太秦である秦公酒の配下に置かれた者達が含まれているという事ではないだろうか。
この事で、秦氏は(非百済系=)新羅系という観念が生じる事になる。
そして、武内宿禰系氏族の蘇我氏が漢人を、羽田八代臣が秦人を管制する体制ができたのではないか?(これも大和氏の指摘であるが。)
しかし、羽田臣の管制権は、太秦になった秦河勝の時代に決定的に弱体化し、羽田・波多系氏族も秦氏に含めて一体視される様になったと思われる。