「天孫族考」補遺9 「江」というもの

「天孫族考」補遺9 「江」というものについて

補遺8で若干の考察を加えた「江」というものについて、もう

少し論考してみたい。

というのは、「江」という水路の利用が、天孫族系海人族や

その配下の川部(川人)にとって、列島経略の戦略上極めて重要

かつ特徴的なものだと考えるからである。

以前、「補遺3 輪中について」でも、多氏水軍と秦氏の川勝

の率いた川部が相関して、大陸からの治水工法としての輪中を

広めたのではないか?という仮説を提示した。

「水路」としての江の利用は、同様に和人系海人族の和邇氏や

多氏が、川部の協力を得て整備したり、古代灯台である鏡岩の

配置を企図したのではないか?と思えるからである。

☆「江」とは何か?

そも江は、漢字では三水偏に工の字を旁(つく)る。工が声苻で

あり、我が国ではコウと清音だが、ゴウと濁る場合もある。

但しこれらは、中国の古語の発音から来たもの?らしく、今の

標準中国語ではJiāngである。

---------例、長江(ちょうこう、拼音: Cháng Jiāng)。

だが、この江は江南では、長江以外の河川を指す言葉でもある

ので、地方語(方言)では相当に異なる読み(発音)になっている。

ゴンとかカンとか、実に様々であるようだ。

(https://ja.forvo.com/word/%E6%B1%9F/ に各地方の発音が

確認できる)

江の字義を辞典で確認してみる。

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[常用漢字] [音]コウ(カウ)(漢)

ゴウ(ガウ)(慣) [訓]え かわ

1 かわ。「江湖・江山/大江」

2 揚子江。「江河・江南」

3 近江(おうみ)国。「江州(ごうしゅう)」

4 江戸の漢語風の呼び名。「江都・武江」

 123は別の辞典では、

① 大きい川。特に長江をさしていう。

※凌雲集(814)留別故人〈賀陽豊年〉

「交レ臂分二張切一、渉レ江悲二望遙一」

※御伽草子・二十四孝(室町末)

「忽ちに江の如くして、水湧き出で」 〔詩経‐周南・漢広〕

② 琵琶湖をさしていう。

※神皇正統記(1339‐43)下

「江をわたりて坂本にまゐりしかば」

などとなっている。

一方、訓の「え」については、

海や湖沼の陸地に入り込んでいる所。入り江。

古くは、広く海・川・堀などをいった。

「奈呉の江に妻呼びかはし鶴(たづ)さはに鳴く」

                          〈万・四〇一八〉

となっている。

また別の辞典でも、

〘名〙 (「え」は元来ヤ行のエ) 元来、川、海、湖、堀などの

一般的な呼び名だが、特に陸に入り込んでいる部分をさすこと

が多い。

※古事記(712)下・歌謡

「日下(くさか)延(エ)の 入江の蓮(はちす) 花蓮(はなばちす)

身の盛り人 ともしきろかも」

※観智院本三宝絵(984)中

「行基菩薩の難波におはしまして橋をつくり、江をほり、

船をわたし」

つまり、→入り延:イリエ、湾入という意味にとっている。

このア行のエとヤ行のエとは鎌倉時代以前には異音として使い

分けられていた。後世には、この区別をつける為に、王朝時代

には無かった新平仮名の「(ye)」も考案された。

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但し、江の漢字の成り立ちとしては、以下の様な解説がネット

で見つかった。

形声文字です(氵(三水)+工)。「流れる水」の象形と「握る所の

ある工具:のみ、又は、さしがね」の象形。

(工は普通には「工作する」の意味だが、ここでは「公(コウ)」

に通じ(同じ読みの「公」と同じ意味を持つようになって、

「おおやけ・みなが共にする事」の意味から、「多くの水系を

広くのみこむ大きな川」、その中の代表たる「長江(中国南部

の川)」を意味する「江」という漢字が成り立ちました。

※正確には会意形声文字である。

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考えられるところを纏めると、

中国では、長江以南の河川を「江」といい、江北の河川を

「河」もしくは「水」と言った。

上述の「多くの水系を広くのみこむ大きな川」というのは、

黄河流域の様に、山地から平野に直下する諸河川ではなく、

江南では山地から流出後も平野部で長い距離を蛇行する河川が

多く、従って支流や分流や河跡湖を形成しながら、複雑な水系

を形成している。文字通り;自然が工作した河川である。即ち

水+工=江である。

だが日本では、普通に入江をいうだけでなく、「江」は特別な

水路もしくは海峡路を指す用語であった。

どういう特別さかというなら、“複数の離れた地域を、水上交通

をメーンにして結ぶ事ができる水路” を「江」と概念付けていた

のである。これは、普通に辞書に載る用語法ではない。

江には、A)東西に結ぶ水路を呼ぶ“横江”と、

    B)南北に結ぶ“縦の江”とがある。

(※但し下記④はABのいずれでもない)

その水系の結び方で分類すれば、

①水路のみで繋がる。同じ舟でずっと行くか途中から小舟で。

②舟越 小舟を担いで短路の陸上運搬や峠越えをする。

③舟替 峠のみを歩荷や荷駄で運び、反対側は別の舟を使う。

④川越 並流している二つの川の上流を陸路で継なぐ。平地

    での舟替。並流が途中に分流で合流点を持てば①。

そして、結ばれる水系は川同士だけでなく、海や湖水との結合

の場合もある。

具体的に挙げてみる。

横江の例 古遠賀湾〜江川〜洞海湾(筑前)と、宍道の江(出雲)、

     対馬の大船越と万関。(これは天然でなく人工水路)

縦江の例 氷上の回廊と、江の川の三次分岐。

後者は、近世になり、三次で江の川に合流する馬洗川支流の

上下川の洪水対策で、芦田川方向への水路(正確にいうなら、

芦田川の支流である矢多田川の更なる支流・国留川への分流)

は塞がれてしまった。一時は代わりの堀があったとはいう。

室町時代後期には、石見銀山街道の馬借の運送が盛んになり、

上下地区から瀬戸内の尾道や福山方面への荷は陸送もされた。

江戸時代には、舟運の便の確保よりは、上下に置かれた天領の

備後代官所のある町域を上下川の水害から衛もる方が、優先

されたのだ。分流があればどうしても南北の勾配が勝ち、町域

へ溢水するからだ。

上下町(広島県府中市に合併された)の観光案内には、以下の

記述がある。

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上下駅は広島県の福山からJR福塩線に乗り、途中駅の府中で

列車を乗り継いで約1時間30分、福塩線で最も高い場所にある

駅です。とはいうものの、標高は383.7メートルで、それほど

高い場所にあるわけではありませんが、この上下の町、実は

「分水嶺」と呼ばれる、水の流れが分かれる山脈の上の境目に

あるのです。

この町に降った雨は、一方は江の川になって日本海(上)へ、

もう一方は芦田川になって瀬戸内海(下)へと流れるから

「上下」という町の名前になった、とも言われています。

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実際に、大雨の時にこの町を訪れると、町内の北側では水が

上に流れ、南側では下に流れるのが実感出来るという。

なお芦田川下流の今は福山市になった旧安那郡は、和邇氏同族

の吉備穴国造氏の支配する所であった。

広島側の太田川は多(太)氏が、江の川側は大田にやはり多氏が

配されていて、この江の川水系の縦の江を制していたという事

なのであろう。また福山近辺には古代、紀氏が拠点を持って

いたという。紀氏は武内宿禰の子もしくはその姻族だという。

和族の頭領であった武内宿禰(実は日之下建)の戦略だった。

----これら縦横の江は共に①の直通水路の例である。

海をも繋ぐ横江である洞海湾と出雲の宍道の江については、

「天孫族考」本文で詳述したので、ここでは説明を省く。

「江」は必ずしも淡水路ではない。横江には海水が通る地峡が

ある。

上下対馬間の浅茅湾は昔は②の小船越だったが、江戸期に藩主

の宗氏が大船越の掘割を造成し小舟が通れる①になった。

その後明治になり帝国海軍が、艦船の通過できる幅の万関を

掘ったのである。今でも小型漁船は大船越を通る。

さて③の舟替舟越は、これも「天孫族考」本文で述べた様に、

筑後川水系の支流から、遠賀川の支流・彦山川への多氏水軍の

舟越の想定が可能である。

(実は近江と遠江も③の江であった事を後述する。)

複雑な水系の舟運の水路については、江戸周辺と大阪周辺及び

木曽三川下流部の、3箇所が典型である。

木曽三川下流については輪中の習俗であり、補遺3で触れた。

大阪周辺とは、古代の河内湖と淀川水系の結合様態である。

河内湖周辺には住之江と江口の二つの江がある。

☆住吉

住吉はスミノエと読み、住之江とも墨の江とか、逆に清江とも

書かれた。万葉集には「須美之延」とも。

しかし、本来は“隅の江”で、河内湖の南側の大阪湾との水路(と

その入江に面した土地との両方)の名であったに違いない。

今は大和川水系になっている西除川が海に繋がる水路になって

いたと思われ、この西除川の河口の北側に相当するのが住吉で

ある。西除川は中流で、今は東除川となっている川と連接して

いたが、この東除川本流は元来河内湖に流入していたと想像

される。或いは時代により、その両除川の分流点までが河内湖

の西南部であったかも知れない。古大和川もその東側に流入し

ていたので、河内湖南部も一大デルタ地帯だったのだ。

(宝永年間の新大和川流路改修で、西除川も改修されたほか、

その新川の流路を横切る南北の川はほとんどが改路された様で

往古のイメージは全くと言っていいほど残っていない。)

だが、この地が有名になったのは、神功皇后が東征に勝利した

後で、航海の無事を保証してくれた綿津見系の三神を住吉神社

として祀った事による。その後、神功皇后の政権?によって、

河内湖の東北畔に筑紫の日下(久我)神を勧請して日下壇が設け

られた。そうなった頃の河内湖への水路として淀川河口に近い

難波の江が利用されたのである。そちらに難波津がある。

記紀では(神功皇后紀に)田裳見宿禰を守衛役に任じたという。

その子孫が津守連となり、やがて住吉神社の世襲神主家にも

なった。津守氏は尾張氏と同族で火明命の裔だとする。

(という事は、丹後の籠神社の祭神に繋がる。)

仁徳紀には,秦人らを役して墨江之津を定めるとあり、河内湖

の南北の江はどうやら古代には津守氏が管掌したようだ。

墨江之津が定められて後、遣唐使船の出発がここからになった

事で、難波津との混同が生じた。(北側の入江は、淀川の沖積で

浅くなって行き、大船の発着に不向きになったのか。)

大伴家持の万葉集中の長歌では、既にその混同が見られる。

 「(前略) 住吉(すみのえ)の 我(あ)が統(す)め神に

幣(ぬさ)奉(まつ)り 祈(いの)り申して 難波津に 船を浮け据ゑ

八十(やそ)楫(か)貫(ぬ)き 水手(かこ)ととのへて

朝開(あさびら)き 我は漕ぎ出ぬと 家に告げこそ」

(この長歌の原文では、「須美乃延能」という仮名が使われて

いる。延はye(n)で江と同音。)

住吉と書いてスミノエと読ませるのは吉をエシ(良し)の当字と

したから(エシは畿内語でエエというのと同様)で、他例には

日吉と書いてヒエと読ませるのと同じである。

因みに、平安時代頃からは、住吉スミノエは入江の水路を言い

土地名は住吉スミヨシと呼ばれるようになったという。

☆江口

一方江口の古名は、難波の江口で、河内湖の北部側の大阪湾との

連絡水路に面した土地である。

淀川は、古代には河内湖に北側から流入していたというが、

平安時代には、今の淀川本流の走る摂津側に複雑なデルタを

形成していたようだ。

分流である神崎川との分岐点が江口である。

世阿弥の能「江口」によって有名になった遊里である。

江戸でも、隅田川の河口近くに(江戸初期には右岸に、その後

幕府の風紀政策で左岸側、浅草の北に)吉原の遊里が置かれた。

しかし、江戸は、家康の開府まで田舎であり、遊里が営まれる

環境にはなかったが、淀川の江口には少なくとも平安末期には

遊里が存在したようだ。

謡曲「江口」は、

天王寺詣りの旅僧一行が江口の里に差し掛かる。ここは遊女と

西行法師の歌問答で名高い。遊女の西行への返歌の意味を

考え、その歌を口ずさむ。それを聞きつけて一人の里女が立ち

現れて、西行の一夜の宿の頼みを断ったのではなく、娼館で

あるゆえ、出家の身を思って遠慮したのだと、当時の江口の君

の心情を解説。そのうえで僧にも、出家の身なのだから、俗世

の話など気に留めないようにと言う。僧の「あなたはどういう

人か」と問いに女は「江口の君の霊だ」と言って消え失せる。

夜半、僧が江口の君を弔っている処に、江口の君の亡霊が、

二人の侍女の霊とともに、屋形舟に乗って現れて来る。

絢爛豪華な舟遊びの様子を見せた後、江口の君は、因果応報、

諸行無常を説き、舞う。やがて江口の君は「執着を離れれば、

悟りを得る」と語り、普賢菩薩の姿に変身。また舟は白い象

(普賢菩薩の乗り物)に変わり、菩薩はその白象に乗って

白雲とともに、西の空へ飛び立っていく。

---------というものだ。

しかしこの遊女と西行法師のやりとりは、西行の「山家集」や

「新古今和歌集」に歌が採り上げられていて、世阿弥はこれを

下敷きにして発想したものと言われる。

しかも、このやりとりした遊女の名が「新古今」には“妙”と

書かれているのである。

そしてその結果、江口にある寂光寺には妙が仏門に入って後に

営んだ庵“江口の君堂”があったとの伝説が生まれた。寂光寺で

は、出家しての比丘尼名は光相尼だとも伝わっている。西行と

妙の供養塔も境内にある。

「江口の君」という語は、江口にいた遊女の総称だったとも、

それら遊女の長の事だとも言われたが、謡曲「江口」ができて

からは西行と歌問答をしたとされる遊女・妙のことを指すよう

になった。妙は平家没落後、遊女に身を落とした平資盛の娘だ

と寂光寺では伝えている。だがこれは後述の如く架空である。

『新古今和歌集』にある歌問答とは、

西行が旅の途中、江口の里で雨宿りを頼んだが断られたので

「世の中を厭ふまでこそ難からめ  かりのやどりを惜しむ君

かな」(“世の中を厭ふ”とは遁世出家する事、とはいえそれは

憂世の繋がりを断ち切る困難がある、それに比べれば仮の宿を

一夜貸すくらいはたやすかろう。君は何を惜しむのか?)と問い

かけたところ、遊女妙の返歌は

「世を厭ふ人とし聞けば かりの宿に心とむなと思ふばかりぞ」

(貴方様が出家者と思えばこそ、このような宿、これは遊女の家

という虚の一時の宿なのだから、心を留めてはいけないだろう

と思ったのですよ」と諌められてしまったというもの。)

仮の宿には出家の境涯も懸けられていると解釈される。

感心した西行と妙は、一晩を語り明かしたという伝承になって

いる。

だが、藤原定家が書き留めたくらいだから、平安末には遊女妙

の名は有名であったのだろう。後世、島原の上臈なども和歌を

読む教養があったというので、江口の君は高級娼館の遊女で

あったに違いない。しかし、資盛女(ムスメ)というのは虚構で

ある。西行(俗名佐藤経清)は鳥羽院の北面の武士だったが世を

儚んで出家した。北面だった頃の同輩が、ほぼ同年という清盛

である。資盛は新三位中将と呼ばれ、清盛の嫡男・小松の内府

重盛の次男である。若くして出世し、かつ叔母である高倉帝の

中宮徳子に仕えた女官、建礼門院右京大夫との恋愛相聞で有名

な歌詠であった。妙が(大体、平家の嫡流の娘なら妙子だが)

もし資盛の子であるなら、清盛の曾孫である。仮に資盛の17歳

頃の長女だったしても、(西行の最晩年=1190年)に会ったと

仮定した場合でも、資盛女は10代の前半になってしまう。

平家滅亡(貞盛も壇ノ浦に沈んだ)年には4・5歳の幼児だ。

資盛の平家=盛者必衰と、歌詠としての高名に因んで作られた

伝説でしかないと思う。

(尾張の織田氏はその資盛の末裔を称していた。さりながら信長

にそんな文才があったとは聞こえない。)

だが「江口なら没落貴族の子女が居てもおかしくない」との

風評はあったのだろう。(いや、むしろそれを売り物にしたと

いう事もあったであろう。

ここで、王朝の昔に江口に、言い換えれば、「江」に沿う場所

に遊里があったというのは、留意すべき情報である。

遊里は古代には一般に秦氏が管掌していたと思われる。川勝の

テリトリーに属するもので、川人部は同時に、上級官に当たる

多氏の関与も受けたと思われるのである。(輪中と同様)

この起源は、月氏がタリム盆地にあった頃、シルクロードの

旅宿のあった崑崙山脈北麓オアシスの河畔に営まれた娼館に迄

遡るのではないか?との疑いを、私は持っている。韓半島での

白丁に繋がる白拍子(単なる舞妓でなく娼妓でもあった)の起源

も含めて、研究すべき分野だろうと思うのだが、残念ながら、

最早私にはその余裕を持つ寿命は少ない。

☆江戸

そして、後世江戸湾と呼ばれた三浦の海に流れ込む河川を関連

付けている江が、江戸と狛江である。

江戸とは 元々、江の門(ト)。

徳川家康の命で、利根川が水郷地区で鬼怒川と合流する様に

改修されるまでは、利根川は今の江戸川で、江戸湾に流入して

いた。並流して荒川があり、その分流だった隅田川と、利根川

は、戸田地区以南で複雑なデルタを形成していた。

このデルタの水路で下総側からの舟も、荒川に乗り入れて川越

方面に行けたし、また逆に隅田川から来た舟も、荒川経由で

デルタの水路を通って利根川上流に達する事が出来た。

その水路の要にあるのが隅田川右岸の江戸である。

隅田川の江戸とは反対の湾奥西側に荏原がある。

荏原は蘆の生えた沼沢地だが、江原でもある。ここは古千束池

という入り組んだ湖沼があった。古代には多摩川は羽村から

東に流れて(その旧河跡が石神井川である)王子経由で荒川に

流入していた。古多摩川の南側には、今でいう立川段丘という

丘陵があり、そこを南から北の川に直角に合流していたのが、

立ての川つまり立川である。こちらは荒川水系なのだ。

一方古千束池に流入していた主たる河川は、八王子から東流し

府中で南に方向転換して、狛江から野川を合わせて二子山島で

並流する浅川である。中世の大地震で、多摩川が立川丘陵の

西部の陥没を抜いて浅川に合流した事から、以降の多摩川の

流路が形成されたのである。だから狛江とはこの古千束池の

水路を通って、浅川経由で武蔵国府(府中)へ通じる国府津で

あった。都から紀州周りで運ばれて来た亡国高句麗の亡命人

を、浅川への小舟に乗り換えさせた水門でもあった。

調布で秦人が織った布や青梅方面で生産された生糸や、国府に

集積された西多摩の米麦を積み出したのも狛江の津である。

また、古千束池からは後の目黒川が品川で(今の天王洲付近で)

江戸湾に流れ出ているので、そこから隅田川はいわば指呼の間

である。つまり、

利根川・荒川そして隅田川を下ってきた物資も、古千束池経由

で狛江の国府津に運ぶ事ができた。

狛江の対岸には、稲毛(今の稲城)という猪名部族が用材を取る

山地があり、浅川沿いの中洲には猪方という猪名部が外洋船を

造る古代造船所があった。ここで造られた大型船で、畿内に

租庸調が運搬されたのである。

江戸の江としての価値を最高に高めたのは家康である。家康が

江戸開府後に利根川の流路変更をした事で、洪水対策として

だけでなく、江戸〜荒川〜利根川の水運が活発化した。

また家康は、駿府に清水港から駿府城下までの、短いながらも

有益な横江を通した。清水港の北部にある巴川河口の津が江尻

というのは、この横江の出口だからである。

☆近江と遠江

ところで、近江と遠江も、古代の「江」に該当すると考える。

両者は従来「チカツ(トオツ)淡海」と説明されているが、実際

は両者ともBの③“舟替の江”に該当する。

江には本来的には、淡海だけを限定した用語法は無い。なのに

江の字が使われる。これは昔から不思議であった。

近江の方は、西南は淀川水系に繋がっている。そして琵琶湖は

古来、内水航路が発達していた。湖北の今津と若狭小浜は僅か

十里しか無い。荷駄に積み替えても、4時間程の距離である。

若狭まで来た越や出羽からの船荷は、小浜で積み替えて陸路を

今津に運び、そこから琵琶湖の舟運で大津に運ぶ。大津からは

山科越えで都に運ばれる。また宇治川から淀川で難波へ、途中

木津川経由で奈良へ運ぶ事ができる。

琵琶湖は立派に“江”である。

一方、遠江はどうか?

学校教育の間違いで、今の浜名湖が“遠つ淡海”だと思い込んで

いる人が多い。古代に遠江の国が置かれた頃には、未だ浜名湖

は今の半分以下の湖水面積しかなかった。東(浜松)側の村櫛

半島の付け根あたりから南は、西の鷲津辺りまで陸地になって

いて、完全な内陸湖であった。中世の大地震で南の丘陵が沈降

して海に繋がり汽水湖になったのである。

遠江の国府の置かれた見附(今の磐田)の南には、太田川から東

は牧之原高地の西麓まで広がる大之浦という湖があり、ここに

太田川や原野谷川、菊川など複数河川が流入する湖水であり、

遠州灘と砂丘で隔てられていた。複数の水路で海と繋がって

いたが河水の流入量が多いので、汽水というより淡水だった。

大きさは山陰の宍道湖程であったと想定される。実はこれこそ

が“遠つ淡海”である。だから国府もその西北部に置かれた。

しかも大之浦はその西北部に、天龍川の分流が流入しており、

太田川経由で、海から乗り入れた舟が、天龍川の南転の箇所・

三方ヶ原台地の東北辺にある二俣まで行けた。川舟に積み替え

れば、そのまま天龍川を遡行して伊那谷に行けるのである。

二俣の対岸には、多氏ゆかりの鹿島の地名も残る。太田川や

大之浦は無論多氏水軍に因んだ名前である。

天龍川は諏訪湖から流出している。だがそのすぐ東の湊津が

岡谷であり、そこから数里の山越え(旧中山道)で、犀川水系の

四沢川に運べば、そこはもう塩尻である。

(岡谷では、諏訪湖に流入する横河川が山越えの地域まで通って

いるので、小舟なら峠下まで行けたかもしれない。)

三河や遠州の塩は岡谷まで舟運で運びあげられ、岡谷から山越

えで塩尻に集積される。塩尻側、つまり松本側の、犀川水系の

四沢川に繋がればそれは(松本町域を流れる)田川〜奈良井川と

なり、梓川と合流して犀川となる。

犀川から千曲川〜信濃川へとも連接するのである。

つまりこれこそまた、舟替えの江である。だから“遠つ淡海”も

正しく遠江なのである。

更に、犀川水系の奈良井川は、奈良井宿の辺りの山越で木曽川

上流とも繋がっているのだ。伊勢湾との交通もあったと想定

される。

これら、近江・遠江ともに縦の江である。

古代人は、これらの江をフルに活用していたに違いない。

中国呉越・江南にルーツを持つ海人族だけでなく、和族の中の

制水族ともいうべき、多氏と(崑崙山脈北麓のデルタ地帯に原郷

を持つ和田の民=)秦氏の川勝もまた、江の活用の知識を有して

いたに違いないと考えるのである。

この知恵が、小月氏が、西域から黄河〜灤河〜西遼河という

移動に役立ったのではないか?というのが、「天孫族考」の

第4章で述べた事の背景にある。

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ここまで「江」について論述して来たのだが、

「江」については未考究のテーマが幾つかある。

1、木曽三川は明らかに江だが、それを明白に証する歴史的実例

 は、下流の輪中の治水技術以外は、未だ見つけていない。

 (室町時代に流域が、小領主に分有されてしまった為か。

 自由な往来は、信長の岐阜の楽市楽座以降であった故か。)

とはいえ

2、九頭竜川〜支流・石徹白川〜石徹白村〜長良川という

  越前大野〜郡上への交通路は江ではないか?との疑問。

  (また石徹白は山越えで富山側の荘川にも出られる!)

  九頭竜川の下流の支流である日野川の舟運と鯖江〜敦賀湾

  というのも舟替(山越)の江かもしれない。

3、姫川〜青木湖〜木崎湖〜信濃大町〜高瀬川〜梓川という

  糸魚川・阿曇平の流通では舟運の利用はどうだったのか?

4、韓半島の河川では「江」はどうだったか?

  黄海側に多い漢江などの江の字の入る河川は、単に川の

  意味でしかないのか?どうやら新羅側の河川は〇〇川と

  いうように見えるが。三韓時代の水上交通の実態は?

  加羅のあった洛東江には輪中もあったのである。

5、家舟(エブネ)の起源についての再考察

  家舟とは、英語でいうhouse boat の事で、第二次大戦の

  後くらいまで日本各地に残っていた。舟に屋根を架けて

  家代わりに暮らす事が出来る様にしたもので、夫婦と子供

  達、今で言う核家族の一家がそこで暮らしていた。彼らは

  明治以降は戸籍を持つ為に、一応は母港に住所を持ち、

  また菩提寺や墓もそこに持っていた。これらは“海民”と

  呼ばれる人々の習俗の一形態である。だが、この家舟の

  習俗は、従来の海民研究者の間では、「織豊時代、石山

  本願寺に味方して抵抗した雑賀衆を中心にした一向宗の、

  加太の浦を拠点にした門徒海民が、本願寺の大阪撤退後、

  政権から徹底弾圧を受け、紀州に住めなくなって難民化し

  織田と敵対した毛利家配下の村上水軍の支配する瀬戸内海

  北部(芸州から芸予諸島方面)に居を移した事に始まる」と

  いうのが通説であった。即ち家舟の習俗は近世初期からと

  されているのである。

  しかし、海人族の起源が中国江南・呉越閩にあり、そこに

  は蛋民と呼ばれた水上生活者が、中国の共産化初期にまで

  残っていた事実があり、私はこの習俗は、近世以前に既に

  相当古い時代の海人族によって列島へもたらされたもので

  はなかったか?と考えるのである。

  そして家舟がエブネと呼ばれるのは、実は“江舟”であり、

  江を生活拠点とした海民の習俗であろうとの仮説を持つ。

  何故なら江は古語ではヤ行のエ(ye )である。

  一方、習俗の外見から家の字を用いるが、家の古語はihe

        で、平仮名では“いへ”と書く。もし短縮形なら“ヘブネ”と

  なる筈だ。ヘは決して発音しにくい語ではない。現に、

  家屋=ヘヤ(室、部屋)という語彙もあるのだ。

  それが、エブネyebune というのは、やはり江舟だからだ

  と考えるのだ。加太海民が、石山敗戦後俄かに思い付いて

  発明した習俗ではなく、古来加太から出稼ぎ漁に行く時に

  家族ごと一時船上生活をする習俗があったのではないか?

  と疑うのである。家舟習俗は、長崎五島付近の島にまで

  広がっていたのだが、果たして山陰北陸方面ではどうで

  あったか。ここを研究した文献には出会ってはいない。

  能登沖舳倉島や佐渡の小木あたりではどうだったろうか。

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