「天孫族考」補遺11 神社の縁起を鵜呑みにしてはいけない

「天孫族考」補遺11  神社の縁起を鵜呑みにしてはいけない

古代史関係の色々の論考を見ると、どうも論者が、各地に

祀られている神社の縁起(由緒書)や、またそれに依拠する祭神

の記述を、鵜呑みにしている事に愕然とする。

☆明治政府の神社政策

先日、

Facebookの古代史研究会サークルに藤島 寛高氏が以下の

投稿をした。(藤島氏は、当該サークルの管理者でもある。)

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# **明治政府の神社政策**

## **八百万の神々を消そうとした者たちの正体**

明治政府が『神仏分離令』という悪法により、全国の【お寺】

をブッ潰そうとしたことは有名ですよねえ。あなたも“廃仏

毀釈”という言葉はどこかで耳にしたことがあるでしょう?

では、【神社】に関してはどうだったのでしょうか?

このことは、ほとんど語られていません。

なぜ、明治政府の「寺院弾圧」だけにスポットが当てられ、

「神社弾圧」は表沙汰にされて来なかったのでしょうか?

おそらくそれは、想像を絶するほどひどいものだったから

です。その内容を聞かされて大反対を唱えたのは、博物学者

としても有名な南方熊楠だけではありませんでした。

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そこで、その記事に案内のある藤島氏のブログを拝見した。

次の様に言っておられる。

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明治39年、ときの西園寺公望内閣は、神社仏閣に関する大変

重要な方針を閣議決定します。

私が「国立国会図書館オンライン」で入手した、その閣議決定

の原文を画像添付しますが、それを要約すると、こんなことが

書かれていました。

現在、わが国には神社やお寺が多すぎる!

これではどの神社仏閣も廃れてしまい、正しい教えが伝わら

ないではないか。

だから神社仏閣を統廃合してその数を減らし、より完全なもの

にすることが得策である。

合併により廃止された寺社の資産は、残された寺社に譲渡して

より強固にするとともに、これにより寺社整理の目的を達成

すべきであるので、ここに閣議決定する。

なんとも稚拙な要約文ですが、あえて分かりにくく書かれた

原文を、正確に再現するとこうなります。

ここには、大変重要な問題点がいくつかあります!!!

(中略)

要するに、この閣議決定(明治39年)は、「お寺の統廃合」に

引き続き、いよいよ「神社の整理統合」に着手することを宣言

したものであり、明治政府にとっては、お寺も神社もどちらも

再編対象だったということが分かります。

◆さらに、こんな重要な政策が「閣議決定」のみで行われた

ことは大問題です。

(中略)

◆もうひとつは、ご丁寧にも明治天皇が発すべき「勅令」の

草案までここに書かれていることで、後日この草案どおりに

勅命が発せられます。

つまり明治天皇の意向も全く無視されていたということです。

もしかしたら明治天皇はただの“お飾り”であり、実際は明治

政府とその背後にいる謎の勢力が全てを采配していたのかも

しれません。

実際に明治天皇はどう考えていたのでしょうか?

京都を視察されたときの有名な逸話が残されています。

この廃仏毀釈により五条大橋の欄干に取り付けてあった擬宝珠

(ぎぼうしゅ、ネギ坊主のような形をした飾り)が、全て取り外され

ていたのをご覧になった明治天皇は、驚きとともに「不快感」を

表明されます。

ご案内役を務めていた京都府知事はただちに“忖度”して、

擬宝珠はもとの場所に戻されました。

つまり、明治天皇自身もこの政策には反対だったことが伺え

ます。

保護すべき神社「稲八金天」とは?

さてさて、いよいよ神社の統廃合に着手した明治政府ですが、

それはもっと具体的な方法で実行されてゆきます。

一体、どんな神社が「残すべき価値のある立派な神社」で

あり、どんな神社が「廃止されてもおかしくないダメな神社」

だったのでしょうか?

そこには、ある明確な選別基準がありました。

最終的に選ばれたのが、「稲八金天」と呼ばれた下記の4つの

神社だったのです。

 ◆稲荷神社◆八幡宮◆金刀比羅神社◆天満宮

この4つの神社の頭文字を取って稲八金天(いなはちこんてん)

といいます。

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として、これら4種の神社は全て渡来人がらみのものなので、

明治政府は渡来人の子孫によって乗っ取られていたのだろう

との想像を藤島氏は展開している。

>>もし私の推測が正しいとすると、明治維新とは渡来人たち

>>によるクーデターであり、このときに政権を握った渡来人

>>勢力が、自分たちの祖先神を復活させて、日本古来の神々

>>を追い出そうとしたということです。

藤島氏は、記紀に載る神武天皇に始まるヤマト王朝以前に、

ウガヤフキアエズ王朝があったと考えている方らしいので、

その古王朝の頃に(天照皇大神の直系子孫に統治された時代に)

は、許容されていた八百万の神々が、渡来人達の陰謀で否定

されてしまった!のだと怒っておられる様だ。

この明治39年の閣議決定は、確かに明治末における政府の

寺社統制政策の総括として出されたものだ。

既に明治初年に神仏分離令が出され、一部過激派国学の徒と

それに煽動された大衆によって廃仏毀釈の嵐が吹き荒れたと

いうのはその通りである。

しかし、“神社弾圧”というのは、些か言葉に行き過ぎがある

と、私は思う。

この神社合祀政策は、元来は内務省神社局が企画したものだと

言われている。その背景としては、明治政府が「基本的には

神道は(国民の自由意志による)“宗教”ではなく“国家の祭祀”で

ある」として、神社の経費は原則国費を以ってすべきだという

考え方を取っていた事情がある。(←明治初期の政府方針)

この為、地方行政機関の費用を負担する同じ内務省の地方局が

可能な限り神社運営経費を減らしたいとの要望をしていた。

そこで、どうせ国家祭祀に無関係な地方神や諸々の国津神は

纏めてしまい、主要な祭神の摂社扱いにしてしまおう、という

乱暴な政策になっていったのである。

だがこの政策の些かならぬ乱暴さは、西園寺内閣の内務大臣が

原敬であったから、政府内部ではあまりストリクトに運用は

しない事になっていた。各地方の実情を斟酌して進めれば良い

という緩いものだった。しかし内閣交替となって長州の桂太郎

内閣になると、その内務大臣の平田東助が、俄然厳格な運用を

主張したのである。この為、地方(各府県)に対する訓令は政策

実行を厳命するものとなった。

結果的に、国家神道に沿う皇室祖神を祀る神社以外は、地方

官僚の無知と成績競争主義によって、一部地方では過激に進め

られてしまった。それでこの現象は“神社整理”と呼ばれた。

平田東助は、米沢藩出身ながら、長州の山縣有朋閥の官僚と

して重用された。彼自身に果たして独自の宗教観があったかは

分からない。しかし、岩倉遣欧使節団に同行し、ドイツに

残って、政治学や法学を学んだ。平田はそのドイツの法学者で

ビスマルクを支持した;ブルンチュリの国家主権論を信奉して

いた。従って、政府が決めた事は厳格に適用すべきというのが

平田の考えであった。

神社整理は、神道にさえ無知な地方赴任官僚の多い三重県で

は、(伊勢神宮関係が残ればよいやとして)県内の9割の神社が

整理されてどこかに便宜的に合祀された。次いで甚だしかった

のは和歌山県と愛媛県であるという。県知事の裁量に委ねられ

ていた事もあり、京都では1割程度にとどまった。

藤島氏の紹介する、五条大橋の擬宝珠(ギボシ)の撤廃は、神社

整理時ではなく、ずっと前の神仏分離令の直後の事件である。

(勿論、擬宝珠は葱華であり、実は月氏葱茈族即ち和族の象徴

であり、皇室にとっては、仏教の標識ではなかったのだが、

当時の官僚に、そんな知識があろう筈は無い。この辺りは、

「天孫族考」本文に書いた通りである。)

元々、明治天皇は、長州閥を不快に思われていた節がある。

伊藤博文の帝国憲法案にも、天皇が単なる“国家機関”に過ぎぬ

事に著しい不快を示されたという。伝え聞くところによれば、

「もし政府が明白に誤った政治を行なうような事態になった時

に、それを止めるのは誰か。天皇しかないでは無いか。それが

明記されていないのは理解出来ない。どこが欽定憲法なのか」

というものだった。もしそれが、明確に憲法に規定されていた

なら、満州事変の拡大や、太平洋戦争の無益な長期化は天皇の

異議発動で、食い止められていただろう。結果的に終戦は、

超法規の“ご聖断”によってなされたのである。

それはさておき、この神社整理によって、

1)各村落ごとの郷社がなくなり、地方中心都市に統合された

 愛着のない;総社化した神社の氏子という名目になった。

 この事は、神社と氏子の崇信関係を根本的に損なう事に

 なった。

2)地域ごとに特色と伝統を持って保持されていた神事習俗や

 祭礼が失われてしまった。

3)神社の縁起や祭神などが、国家神道に沿うよう、神統譜に

 合うものに書き換えられてしまった。

など、大きな弊害を残したのである。

神社の縁起と祭神の改変は、神仏分離の際に次いで、明治に

入って2度目のことだが、これが戦後の祭政分離と神社の公営

禁止化に直面し、神社本庁が独立した宗教法人となった事で、

再度改変をされて今に至っている。

このような経緯から、現在流布されている各地の神社の祭神や

縁起・由緒などの伝承は、以前とは書き換えられた物になって

いる可能性があるのだ。

しかし、このような祭神や縁起の改変は、明治に始まった事で

はないのである。

ここで、古来からの神社の由緒・縁起の書き換えについて、

纏めておこう。

☆神社の祭神や由緒の変更修整

①風土記の編纂時

土着の自然神などが、大和王権との関係性のありそうな神名に

修整された。

②国分寺の設定時

この時、並行して総社・◯所神社の如く、郡社郷社の統廃合が

行われた

③延喜式の制定時及びその後

式中記載の内容に合うよう、各地で由緒や祭神の見直しが

行われた。

④平安後期〜鎌倉期

神仏習合思想の進行により、仏教側が域内の神社祭神の本地を

決定する過程で、祭神の変更がなされた。また天下二分の戦乱

に於いて祭神や由緒書きの見直しが為された。

●源平争乱の後には、平家寄りの由緒は消され源氏や八幡神に

関わる由緒が増加した。

●南北朝時代には、それぞれの方に付いた豪族の領域では、

神社の由緒の変更も自軍に都合の良い様に為された。

⑤室町期

修験道各宗派の勢力伸長の結果、支配下の神社の祭神や由緒

書きの編集が行われた。

延喜式や記紀記載への勘合変更はこの頃から開始された。

⑥江戸期

●別当寺支配の徹底により、社僧による配下神社の祭神の

見直しや由緒書きの再編集がなされた。

各地で社僧の思い付きなどで複数回実施された。この影響を

受けなかったのは、伊勢神宮や賀茂神社・吉田神社など極少数

の例外だけである。三社以外は全ての神社が寺院の支配下に

あり、神職は居ても下働きの祝などだけで、祭祀は神前読経

など社僧によって執り行われた。

多くの神社は社僧のみか、修験による神官兼職であった。

●国学の流行により、記紀の知識が各地の寺僧や先達修験にも

広がり、記紀の記載と伝承の整合性を取る研究会が各地で開催

され、そこで協議して決められた趣旨に沿って、関連する神社

の由緒や由緒の背景伝承などの統一、また祭神の補足などが

行われた。(旧分国、例えば遠州とか上州とかの領域、で実施)

関東の日本武尊や四道将軍らの行路の“確定”(無論推定でしか

ない)や、経路の飛び地の間の補充などが考証されて、途中地に

ある神社に祭神の追加などもなされた。

江戸中期にも、この趣旨に従って、遠州〜駿河・相模・甲斐

などの各地の日本武尊経路地の考証確定がなされた。また畿内や

西国九州では神武東征の経路の考証やそれに因む祭神の変更や

合祀が、修験道各宗派本山の指示で実施された。

⑦明治初頭の神仏分離による全国的な祭神の再改訂がなされ、

修験より還俗して神主となった神職により由緒書きが、教部省

の凡例や延喜式の記載を参考にして大々的に実施された。

これにより、従来の祭神とは相当に異なる結果を生じた所が

多々ある。また寺院付属社から独立した神社では、従来の本地

垂迹思想と飛躍した祭神を勧請した所も少なくない。

この様な経緯があるのだから、神社の縁起や祭神は、よくよく

疑ってかからねばならないのである。鵜呑みは単なる盲信で

しかない。神社の縁起を古代史の資料に使うのは難が多い。

私の父=ICは、国内旅行のツアープランナー草分けの一人だった

人で、商売柄全国各地を飛び回り、その傍らで各地の神社に

参拝して、そこの縁起書を蒐集した。また不確かさがある物は

そこの神職に聴取した。そして60年代前半に、正続2冊になる

「日本全国神社の縁起」と題する本を自費出版した。

この本を親族の従大叔父に進呈した。この人はその父が大井川

中流の川根(今は島田市に編入されている)で大井坊という修験

の院を営んでいたので、後を継ぐべく、若き日には秋葉山や

修験の本場である奥吉野や大台ヶ原の修行にも入峰していた

が、明治の修験禁止令で還俗した経歴を持っている。関東から

西日本各地の神社の詳しい知識を有していた人である。

だが、我が父ICの著書を手にした従大叔父は次の様に語ったと

言うのである。

「ICも可哀想だよな。神社の縁起なんて、過去何度も書き換え

られているのを知らないで。ウチの親父の大井坊なんかも国学

やったりして、配下の(東遠州の)神社の縁起を適当に修整した

と言っていた。ICは無駄金使ったものだ。」

従大叔父が嘆いていたと、私は年配の従兄から聞かされた。

この様な書き換えは、江戸期にはほとんど神職がいなくて、

郷社村社まで修験が管理運営していた土地では、廃仏毀釈に

よって、かなりドラスティックに行われた。

一つの典型が日向=宮崎県である。

今、ウガヤフキアエズ生誕の洞窟伝承を持つ鵜戸神社は、幕末

までは南日向の修験の拠点寺院・吾平山仁王護国寺だった。

生誕洞窟は、その寺の修験が、ウガヤフキアエズはこういう所

で生まれたに違いないと推定して、神話の地を確定するために

設けた信仰施設なのである。

ところで、先に引用のあった“稲八金天”の事だが、これらは

明治以前は、末社(末寺)は別にして寺院そのものか、或いは

寺院(別当寺)の強力な管制下にあった社(ヤシロ)である。従って

地方に散らばった(勧請された)末社は、殆どが土地の里修験に

よって維持運用されていた。言い換えれば、それら里修験の

“たつきのタネ”(生計の手段)だったのである。

因みに今では大きな“神社”となっている鶴岡八幡宮(鎌倉)も、

江戸時代までは“鶴岡八幡宮寺”という寺院であり、また京都の

北野天神も僧侶によって運営される北野社という全くの寺院で

あった。

神仏分離に際して、“稲八金天“は元々寺院なので、他の神社と

合祀には適さなかったから独立したままに扱われたのである。

では何故「廃仏」に巻き込んでしまわなかったかといえば、

それだけ信者が多かったからだろう。だからそれらの信者ごと

神社化して、神社陣営のテリトリー拡張を意図したものと思う

のである。これに伴い、末社を維持していた膨大な数の修験が

還俗して神職に転換した。これは同時に修験の数の削減にも

利する事になった。廃仏毀釈の行き過ぎに気付いて、明治政府

もすぐに仏教の容認に舵を戻した。一説には、欧米との通交が

自由になって、仏教を圧迫したままでは、戦国期の様に、全国

にキリスト教が広宣される危惧を感じ取ったからでもある。

だが、修験道だけは禁止したままだった。明治末からは修験は

何と特高警察の視察対象になった。特高は共産党の視察だけを

行っていたのではない。何故そこまで、修験者を危険視したの

か? 修験道が元々勤皇思想を持っていたからだ。

皇国思想を喧伝し天皇制を国体の中核と標榜していた薩長政府

が何故勤皇の修験道を敵視したのか。修験道の勤皇には千年の

歴史があり、南北朝時代には天皇方(南朝)に立って武器を取り

僧兵が戦いの前面に出た。これは畿内の修験だけではない。

秋葉山(秋葉寺)の宗徒も、南朝方の皇子を擁した井伊氏と共に

北朝方の守護今川氏と戦闘を繰り返したのである。

つまり修験者は、筋金入りの勤皇者であり、俄か勤皇の薩長の

下級武士達より優っていた。薩長政府はこれを恐れたのだ。

本物の勤皇が居ては、名目勤皇の(つまり天皇は利用するだけの

御神輿で良いとする、本来は不敬の極みである)薩長武士上がり

には不都合だったのだ。修験者を野放しにしていたら、いつ

天皇を擁して本当の天皇制を目指す勢力になるかもしれない!

明治天皇はここのところを賢察されていたのである。天皇大権

を規定した帝国憲法が、実は天皇の権威に枠を嵌めるものと

悟っておられたのだ。この叡意を拝察して、天皇の侍講だった

元田永孚が起草したのが、あの教育勅語だった。教育勅語とは

「本来の皇国は、帝国憲法が規定した天皇機関説とは違う物」

という主張を潜在的に展開したものである。ところが皮肉にも

教育勅語は、その長州閥の陸軍によって、国民が天皇に盲目的

に臣従すべき理由付けに転用されてしまうのである。

古代史での神社の縁起の取り扱い

そこで、古代史を考究する立場から、神社を参考にする場合、

どういう点に留意すべきか?を列挙してみる。

1)(延喜)式内社及びそれと同時代及びそれ以前の創建であると

 信じられる“古社”の縁起には、それなりの由緒があると考え

 られる。

2)合祀などの神社整理後でも、神社名には元の名称を保っている

 ものが多いので、古くからの地名同様に古代の片貌を伝えて

 いる可能性がある。(地名は古代史の宝庫だ、と言ったのは

 故谷川健一氏であった。)

3)中世(平安)以降に修験の寺院によって新たに創建された神社は

 修験教団の想像力で創作されたものが多いので要注意である。

4)元来は(江戸期までは)寺院であったものが、明治以降に神社に

 変わったものは、由緒・縁起や祭神も、殆ど信用できない。

ここで特筆すべきなのは、宮崎・鹿児島両県の多くの神社が、

(3)(4)に該当するので入念な考査が必要だという事である。この

両県は廃仏毀釈が徹底的に行われ、江戸期に修験が管理していた

社祠は修験者が神主に転職し「神社」になったものが多いのだ。

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