第12章 応神天皇の生育地は筑紫の水巻
第12章 応神天皇について
先に、「“天孫族の畿内王朝の開始者である”応神朝」などと
書いたのだが、応神が九州で生まれて幼時を過ごし、神功皇后
の大和征伐に連れられて畿内に来た事は記紀に出てくる。
しかし、その幼時を過ごした場所は、仲哀と神功の行宮の
あった香椎宮だろうと一般的には思われて来た。
しかし、私はこれに異説を唱えたい。
●応神天皇の成育の地---------北九州遠賀川河口に近い
「水巻町」ではないか?(仮説)
漢風諡号の応神天皇は、和名が誉田天皇という。これは、彼の
名が誉田別尊というのでそれをそのまま大王名に使ったものだ
と言われた。
そしてこの誉田(ホムタ)とはどういう意味か?について、多く
の説は、彼が生まれた時にその腕に奇形があり、これが弓を
使う時の革当てである鞆(ホムタ)に似ていたからだと云う。
またそのような風説が生じたのは、後に応神天皇が八幡神と
習合し、武神となったからで、その武の象徴として弓の鞆の
連想から“ホムタの命”の名前が後世に付けられたものだとも
いう。(だが、もしそうなら誉田別と呼ばれる前の名が何かは、
分からない事になってしまう。)
しかしながら、誉田別という名は、曾祖父の景行天皇が忍代別
といい、祖父のヤマトタケルが小碓命、父仲哀が足中彦という
系譜の中で、最も素朴な響きがあり、恐らく実名ではなかった
だろうか?との説が有力である。
では、その名の由来となったホムタというのは一体何なのか?
それを考究してみようと思う。そしてホムタ→鞆の連想が何処
から生じたのか?も併せて究明してみたい。(ここで確認して
置くべきは、後世には鞆(トモ)と呼ばれた弓使いの革当弓具の
古語がホムタだというように解されている事だ。しかし私は、
鞆は元来トモであり、通説の鞆の古語がホムタというのとは
逆に、ホムタに鞆を連想させる要因があり、この為、ホムタと
トモが同一視される結果を生じたのだと考えているのだ。)
では、先ずそのホムタという言葉の解析から始めよう。
私は、このホムタとは本来「保牟田」であったろうと考える。
そしてこの保牟田は、合成的な概念であり、保田である牟田
という意味だと思う。保田というのは、食神である“保食神”
(ホケツノカミ)に捧げる為の田であり、いわゆる神田である。
保田は祝田(ハフリダ、イワイダ)とか宝田とも呼ばれた。
“保食神”は食神というだけでなく、延長として豊穣の神とも
なり、また八百万の神々へ悠紀の食膳を奉侍する神ともなる。
その極致が伊勢の下宮に祀られている豊受大神である。
受とは保食(ホケ)の訛形である。ケとは朝餉とか夕餉の餉と
いうように「食事」を指す。恐らく神膳を云う悠紀とか主基
のキもまたケの同行通音変化であろう。
稲作の豊作を願い、後には田楽や早乙女踊りなどを以って
祈願の祝祭をした場が、新嘗祭に神膳に盛る米を育てる保田
なのである。
一方、牟田とは何か?大牟田などという地名が今も残る様に
これは九州で!、川沿いや海沿いの、いわゆる潟地に作られた
田圃を云う言葉である。
私は、応神の幼時の成育の地、即ち神功皇后が、畿内で香坂王
と忍熊王兄弟の起こした“反乱”(?)を制圧する為に東征する、
その前に居た行宮が、水巻宮と呼ばれた(北九州市の西に隣接
し、遠賀川沿いの)水巻町にあったのではないか、
と推理しているのである。
正確に言えば、「水巻町に在ったという水巻宮」ではなく、
町村制成立の時に、“古代に水巻宮が在ったので町名を水巻と
したのである”。
そして、同名の水巻宮を名乗る地元神社の由緒書きには、
水巻宮の古名は保食宮であったとされている。そして、この
ホケノカミを祀る神社の北東に、今でも牟田の地名が残って
いる。よってその字(アザ)のあたりか隣接地に、保食の神に
祈願する保牟田が在ったと思われるのである。
保牟田そのものの地に、ホケの宮が在ったのではない。
牟田は湿田であるから宮居の地としては適当ではないからだ。
保牟田の南西側は丘陵地になっており、そこは町域の西側を
流れる遠賀川の想定氾濫域よりも、一段上がった所である。
この南側には、王朝時代に、太宰府へ通う官道が通っていた
が、丁度現在の水巻町古賀の吉田のあたりに“久我(こが)の駅”
が置かれていたという。交通上の要衝でもある。
そして、この古賀の南の立屋敷地区には、九州でも最も古い
時期の弥生時代の遺跡がある。稲作発祥地の伝説もある。
このあたりまでは、上古には古遠賀湾が広がっていて、官道は
その付近で対岸(今の遠賀町側)に渡船で川越えした。その先は
後世の唐津街道(今の国道3号線)で、香椎を通って南西に下り
博多の町に至るのである。
だから、神功皇后が香椎宮への途次に水巻宮に逗留したという
伝承があるのも不自然ではない。そして、遠賀湾を保牟田の
西側まで下れば、洞海湾に抜ける江川という水路に出る。
洞海湾に出たところが、古の岡田宮の在ったあたりで、そこの
陣原という土地が、神功が香坂王の反乱を鎮圧する九州の軍団
を集めて出陣式を行ったという場所に当たる。そこから船出
すれば、玄界灘の難所を経ずして、洞海湾は門司の辺りで
周防の海(瀬戸内海)に抜けていたのである。
さりながら、地の便の事はさて置き、神功皇后がそこ水巻宮に
立ち寄ったというのは、そこがヤマトタケル命の滞在伝説の
地であり、西征の途次か東征の途次かはともかく、戦勝祈願の
為であったろうとされている。
では、そこのヤマトタケルの伝説とは如何なるものだったか。
ヤマトタケルは熊襲征伐の往路帰路ともに、そこに逗留したと
地元の伝承にある。その宮居には、元々都から下って来ていた
砧姫という高貴な女性が住まいをし、ヤマトタケルはその女人
を娶って、子供達(王子と王女)を成したという。
地元伝承では、男子は砧王といい、砧王にはまた四人の男子が
あったという。砧王は後に当地の国造になったとされている。
勿論、伝説上は、熊襲征伐の前までは小碓命であり、熊襲梟師
を滅ぼした時に、タケルの名を貰って、ヤマトタケルの名に
なったとされて来た。
つまり、保食宮は砧姫の居所をヤマトタケルの行宮としたもの
なのである。立屋敷の西部に、八剱神社があるが、 遠賀川を
望むそのあたりが水巻宮の故地だという。八剱神社には、武内
宿禰が植えた?という銀杏の木があるとの事だ。そしてこの
銀杏は武内宿禰が畿内にもその種を植えたという伝承があり、
それらは大陸由来の種子だとも言われている。
私は、このヤマトタケルと砧姫というのは武内宿禰と息長媛で
あり、そこに生まれた王子というのが、保牟田に因んだ誉田別
即ち応神天皇ではないかとの仮説を立てている。
誉田別はヤマトタケルの孫と記紀では伝えているが、本当は子
であり、ヤマトタケルは実は武内宿禰と同一人だと考える。
(先述の砧王は誉田別とは別の人か?或いは、砧王は葛城氏の
祖になった人かとも思われる。何故なら、後の大臣となった
武内宿禰の子孫五氏は、葛城氏のほかに四氏族あるからだ。)
勿論ヤマトタケルとは、景行の皇子小碓命(それが熊襲征伐を
したとされる皇子、ヤマトタケルA)だけでなく、東征それも
東国と北陸路など複数の地を平らげたという垂仁の孫神達、
即ちヤマトタケルBやCといった英雄複数を統合して創造され
た英雄叙事詩の主人公である。
私がヤマトタケルというのは、別名武内宿禰であり、神功皇后
とともに九州で挙兵して、後に幼い応神天皇を擁して、畿内の
三輪王朝側と対峙した(九州王朝の)景行の皇子とおぼしき人物
の事である。
砧姫は保食宮の斎宮として都から下された巫女であり、これは
慣例上息長氏の子女から選ばれたと思われる。砧姫の名からは
織姫でもあったかと思われ、いずれにせよ秦氏との関係も推測
されるのである。もしかすると、一旦宇佐に斎宮として下り、
更に九州王朝の祀る保食宮の巫女に飛ばされて来たのであった
のかも知れない。
九州王朝は岡田宮か遠賀川を上った香春あたりに宮居が在った
と思われ、保食宮のある水巻は、遠賀川東岸の、九州王朝の
本拠地の版図に内接している。保食宮は単に豊穣を祈願する
食神というだけでなく、母なる遠賀川を鎮める川神をも祀る
大事な聖地ではなかったろうか。
そして、この水巻宮を取り巻くのは、俗に水巻三山という、
あたかも大和三山を思わせる三つの山丘である。
この三山には、古来からその山上もしくは麓に神社が祀られて
来た。麓の神社も往古には山上に在ったが祭祀に不便なので、
後世山麓に降ろしたという言い伝えがあるので、山上の奥宮に
対する麓側はいわゆる里宮なのであろう。
しかもこの三山の神社のいずれもが、神紋として八咫烏を起用
しているのである。八咫烏は神武東征の伝説に登場する吉鳥
である。神武東征は、応神の東遷を神話化したものとされる
ので、神武=応神にまつわる八咫烏がここ水巻三社に残ると
いうのは、大変に示唆的であると思う。
水巻三山は、中世に神仏習合と修験の修行道場が出来た事から
甚だ中世的な名称になっている。それぞれ、明神ヶ辻山・
豊前坊山・多賀山であり、それらは畝傍山・香具山・耳成山の
大和三山に対応する。
三山の間に広がる小高地が、(大和でいう浄御原に当たる)
久我(古賀)という地域である。この久我とは、何か?
京都伏見の久我の地名に由来する久我源氏が、公家の久我氏
(コガシと訓ずる)として有名だが、このコガという地名は、
実は特に北九州地域に多い。
これについて、ネットで次の様な見解を述べている人がいる。
--------------------------------------------
このコガとか、クガとかいう言葉は何なのだろう。(中略)
空閑地という言葉がある。使っていない土地、空き地のこと
だ。この空閑地を指す言葉が「クガ」や「コガ」だと言われて
いる。しかし、空き地といってもただの空き地とは少々
ニュアンスが異なり、「開拓されていない土地(荒地)」
や「これから開拓される土地(荒地)」をコガ/クガといった
ようだ。
また、海に対して陸地のことを「クガ」といったことから、
小高い土地を「クガ」「コガ」というようになったという説
もある。
https://ch.nicovideo.jp/ky2g/blomaga/ar183824
--------------------------------------------
この人は、日本の地名を考究している方の様で、кёкуの
ハンドルネームでブログを多数書いている。
>> кёкуは「きょく」「きょーく」と読みます。敢えて
>>キリル文字に改名しました(キリッ)
>>「きょく」とか「きょーく」とお呼びください。
東京の久ヶ原などという地名も同様だろうか。空閑と書いて
クガさんという苗字もあるから、クガもこの延長上の概念
だろうというのが、このкёкуさんの見解である。
私にも、対案は思いつかないので、一応この
>> 小高い土地を「クガ」「コガ」というようになった
という説を、今は取り敢えず採っておこう。
ただし、空虚な土地ではなく、むしろ私は神祭の地として、
結界された小高い土地というものではないか?と漠然とした
観念を持っているのだが。
(水巻の久我は現在では緑ヶ丘という地名になっている。)
さりながらクガ地(陸地)という表現もあるので、丘稜一般を
クガと称したのかもしれない。
辞典では
--------------------------------------------
陸地(読み)クガチ(デジタル大辞泉の解説)
くが‐ち【▽陸地】 りくち。
「紀伊国千里浜の遠千潟、俄(にはか)クガチになること
二十余町なり」〈太平記・二〉
--------------------------------------------
となっている。クガ地即ち陸地なのである。
磯→浜(洲)→潟・牟田→クガ(陸)→原→山→峰という様に、
ブラタモリの高低差的に概念を捉える事ができようか。
但しこのクガであるが、畿内にある久我神社は、鴨氏の氏神
を斎く神社だと言われているが、そこの社章(みしるし)が
八咫烏で、八咫烏は鴨氏のトーテム;祖神伝説なのである。
だから、場合によっては、水巻のクガは中世に修験者が、
久我神社を勧請してその社地が在ったので久我という様に
なったのかも知れない。しかし、だとすると、九州各地に多数
存在する古賀の地名は皆、鴨氏の久我神社に由来するものか?
(あたかも山伏が各地に勧請した熊野神社の如くに、である。)
だが、各地の古賀に等しく久我神社や賀茂神社が鎮座している
のではないので、ここのクガはやはりクガ地の事だと考えて
置こう。(私はむしろ、ここの出身者が畿内に久我神社を持ち
込んだ鴨氏の一族だと考えているからだ。→後述する。)
その久我(古賀)の地に祀られた三神社は、明神ヶ辻山には伊豆
神社、多賀山には多賀神社、豊前坊には豊日別大神。この神は
豊の国魂。中世に豪族麻生氏が古賀の地を支配したのだが、
麻生は秦氏系の氏名なので、宇佐に所縁が有ったのか?よって
山も豊前坊山。神仏習合の修験の跡地らしい。また近くに
厳(いず)神社がある。恐らく伊豆神社も元は厳(いず)神社
だったのかもしれない。(彦火々出見命が主祭神。彦火々出見は
兄弟争い譚での、ヤマトタケルの神話的な化身であろう。)
そして、三山の南に八剱神社がある。明神ヶ辻山の伊豆神社は
中世に久我に祀られた“久我神社!”を遷座したものだとも
言われている。主祭神は日本武尊と砧姫。劔は日本武尊に関係
する徴。またこの地で近江にゆかりのある多賀神社が祀られて
いるのは興味深い。近江の多賀大社は、今では伊弉諾・伊奘冉
の夫婦神が祀られているとされるが、本来は近江の豪族犬上氏
の祖神を祀った神社であるとされ、その犬上氏はヤマトタケル
の子孫との伝承がある。何故か多賀大社にもまた八咫烏の伝説
もあるのだ。(それとも、八咫烏に関わる神社を水巻に敢えて
集めたというのだろうか?)
ところで、誉田別の誉田が何故に弓具の鞆に連想され、鞆の
古語がホムタだとされたのか?
鞆というのは巴型の事である。ちょうど勾玉の形状に似ている
のである。巴というのは、鞆絵であり、鞆を(紙などに)描いて
二次元化した象形が巴なのだとされている。(だが私は、巴とは
“玉絵”で勾玉を絵にしたその物だと考えもするのだが!)
実は、遠賀川の東側には、中世には水路として活用された曲川
(マガリカワ)という支流があり、その曲りは水巻三山を西側
から回り込んで、南側では遠賀川の本流からは東側に曲がって
離隔する。その形状がちょうど巴型になっているのである。
しかも古代には、東側から流れて来た浅川という洞海湾からの
水路である江川の支流が、問題の保牟田に流れ込み、更に
遠賀川の東にある豊前坊山の北側で曲川に合流していたと想像
される。(今の曲川の流路は、江川の遠賀川合流点で分流し、
豊前坊山の北で逆“く”の字形(>)になっているが、この>の
屈曲点は、古浅川の合流点であったと推測される。)
つまり保牟田から大きく巴型の流路になっていたのが曲川なの
である。この曲川の巴の形状が保牟田と重なって、誉田= 巴
という連想が生じたのではないか? もし、本当に、弓具の
鞆→巴の古語がホムタだというなら、曲川の形状の巴から
誉田別の名前が生じたという説も成立するかも知れぬ。しかし
それは、ちょっと飛躍し過ぎではないか?
保牟田のあった地域(にあった保食宮)で育ったので誉田別
という命名の由来の方が、ずっと自然であると思える。
そして誉田別の生育地での巴型の川、これは水巻三山に登って
俯瞰すれば、その全貌が視認できるのである。
さて積み残した、久我と鴨氏の久我神社との関わり合いに
つき、若干の私見を述べておこう。
--------------------------------------------
久我神社(くがじんじゃ)は、
京都府京都市北区紫竹下竹殿町にある神社。式内社で、
現在は賀茂別雷神社(上賀茂神社)の境外摂社(第八摂社)。
主祭神 賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)
賀茂県主(賀茂氏)の祖神。上賀茂神社祭神の賀茂別雷命
(かもわけいかづちのみこと)の祖父にあたり、神武天皇の
東征で先導した八咫烏(やたがらす)と同一視される。
古くより社名を「氏神社」を称することから、祭神は賀茂氏
祖先神の賀茂建角身命とされるが、上賀茂神社文書によれば
近世には国常立尊などとの異説も存在した
--------------------------------------------
鴨氏は葛城鴨氏というのが、畿内の鴨氏一族の本貫であると
され、古代においては、葛城氏の庇護下に在った。隣接して
波多氏(秦氏?)が葛城氏の同じく庇護下にあったと知られて
いる。奈良朝時代以降に鴨氏も秦氏も、大和北部に移住し、
更にまた山城盆地の開発には両氏が協力して事に当たった。
洛北東部に賀茂神社が営まれ、洛西には太秦寺と松尾神社や
愛宕神社が秦氏によって開創された。
平安京時代には、両氏は摂関家藤原氏を側面から支え皇室を
護持する、正に皇室の藩屏である。我が国の仏教の開祖たる
最澄や空海は共に秦氏ゆかりであり、また中世の仏教もまた
秦氏に関わるものが多い。
しかし、久我神社を氏の神とする鴨氏が、武内宿禰の子孫で
ある葛城氏の庇護下にあったというのは、恐らく葛城氏祖が、
九州での武内宿禰(即ちヤマトタケル)の子、応神・誉田別の
異母兄弟であった頃から、葛城氏の周辺で神祭の任に当たって
いたマギ集団ではなかったか?と考えるのである。日本の神職
の装束は賀茂神社の禰宜のそれが標準化されたという考え方が
ある。鴨の禰宜というものである。
思うに、鴨氏は天孫族=葱韮族のマギの中/下層に位する神官
ではなかったか?
だから、応神及び武内宿禰の東征に、葛城氏らと共に従事して
西南大和に移住し、その後山城に本拠を移した時に、逆に、
故地である水巻のクガに在った祖先神を祀る神社を畿内にも
勧請したのかもしれない。
それが畿内にある久我神社なのではなかろうか?と一先ずは
考えておく。(後述するが、京都の桂川の下流に久我の地があり
そこにも久我神社がある。ここが本来の山城の久我である。)
一方で、息長氏と秦氏や鴨氏の関わり合いは、歴史の記述では
隠れてしまっている。恐らく息長足日媛(応神生母)の神話化
されたと思われる玉依姫(神武生母)を、鴨氏の関与する洛北の
貴船神社で祀っているというのも、裏にある息長足日媛→
武内宿禰→葛城氏→鴨氏の関係を暗示するものだ。そして、
貴船は正に玉依姫が船魂となって神武東征の船を護持した神話
に基づく伝説により、その船形石という磐座を祀っているのだ
が、一方で“料理の神”とされて来た。これは、鴨氏が遠い上古
に、水巻の地で保食神の祭祀に従事していた名残ではないのか
と私は疑っている。だから水巻にも鴨氏の八咫烏がいるのだ。
正にすべては、遠賀川東岸の水巻に繋がっている。
保食宮の斎宮に派出されたのが、息長足日媛(砧姫)だとすれば
息長氏=息ネギ氏は、天孫族の高級神女を出す一族ではないの
だろうか?だから宇佐にも息長大媛という名の神女が祭神の
一柱として存在するのだろう。宇佐の息長大媛の化身は銅鏡
であるとされて来た。これは、息長氏の姫=葱韮族の高級神女
として、神功皇后が天照大神の現人神でもあるとされる意識に
繋がっている。天照大神=大日霊貴女(オオヒルメムチ)だが
それは“大日葱蒜持”で、太陽神の化身として、ネギニラの束を
祈祷の呪具(神聖植物)として用いた巫女だからであろう。
ゾロアスター教のマギが聖なるハオマ草の束を手にかざして
祭祀に当たったのと同じく、(今のマニ教に見られるが如く)
葱韮族の聖職者はネギの(恐らく葱宝珠の付いた)束を翳して
祈りをささげたのだろうと想像する。多分にそれは太陽神が
降臨する依代としてであり、特に神妻である巫女の役目で
あったのか!
月氏国の葱韮族には、女王が居たとされるが、この高級神女の
血統を維持していたのが息長氏で、一方男系のバラモン(マギ)
が最高神官としてのニギ(和)族=天孫族=皇族なのだろう。
女系氏族だったかもしれない葱韮族は、葱嶺(パミール)→
青海高原→遼→朝鮮→加羅→北九州→畿内と流転する内に、
異族との戦闘序列の都合から次第に男系有利となって行ったの
であろう。一方で、女王を出した家系も併せて保持して来たの
ではないか?一旦応神の直系河内王朝が途絶した時に、応神
五世の孫であり、息長氏との婚姻関係の伝承がある、“男大迹
(おおど)王”即ち継体が、越の国から畿内に、大連大伴金村
らによって推戴されたのは、ある種の必然性があった、と考え
られる。息長氏の血統を介する事によって、万世一系は実に
パミール高原にまで遡及する観念となるのである。
(もっとも、継体は、亡き武烈の皇女であった手白香姫を妃と
し、そこから後の皇統の祖・欽明天皇が誕生しているので
ここでは一時女系に移ったかに見えるが、それを応神五世の
孫である継体の血で、男系が保たれた!としたのだろう。)
継体は、大和に残る河内王朝の王族達の抵抗によって、直ぐに
大和に入ることができず、山城や河内に宮を構えて、二十年程
も転々とした。手白香姫の認める皇子が後継した時に譲位して、
やっと大和に入れたという伝承もある。継体そして安閑の宮居
もまた神武・応神と同じく磐余宮だったというのも、いささか
作為を感じる話である。
譲位したその日に崩御したとの異説もあり、それでは継体は、
種馬同様になってしまいかねない。或いは、皇子が複数確保
されたことで、公卿達によって弑されたのであろうか?
ところで、いわゆる“三種の神器”は、必ずしも皇室のみの
レガリアではない。そも剣や鏡や勾玉は大陸の民族の神器と
なっていたものがあるし、景行紀や仲哀紀にあるような、
九州の部族長、神夏磯媛や五十迹手が、榊に剣や鏡や勾玉を
掛けて歓迎の印とした事が出て来る。これは“三種の神器”が
天孫族(皇家)の印と知ってそうしたのか、一般的に西日本の
土酋の首長に共通の物だったのかはわからない。
しかし、こと皇家に於いては、鏡は天照→息長大媛(宇佐)の、
剣は素戔嗚(出雲族、須佐族)と日本武尊のシンボルであり、
勾玉が誉田別=応神のシンボルなのだ。だから前二者は、
宮中には形代が置かれるのに対して、八尺瓊の勾玉だけは
本体其の物が安置されている(事になっている)のだろう。
継体も一応“応神五世の孫”とされているので、従来の応神→
仁徳から武烈までのいわゆる河内王朝を第一応神朝(もしくは
前応神朝)というなら、継体〜今上までの現王統は第二応神朝
(もしくは後応神朝)とも呼べるだろう。
そして、孝昭→孝安→----景行→成務→日本武尊→応神が、
先応神朝即ち九州王朝である。しかし倭国を最初に連合させた
王朝は三輪王朝(孝霊→孝元→開化→崇神→垂仁→香坂)であって
先応神朝の日本武尊(武内宿禰)と息長帯日姫と九州軍団参加の
天孫族の臣たちによって打倒され、応神が大和新王朝を開いた
というのが、私の古代史の仮説である。
その打倒・王朝交代を一系の継承に見せかけるために、
孝安→孝霊の接続と、日本武尊→仲哀→応神という接続とが
考案され、先応神朝の祖神部→三輪王朝→先応神朝→前応神朝
→後応神朝、という皇統が案出された。
しかし、蘇我氏と厩戸皇子との主導で成立したという最初の
「帝紀」(中大兄の軍が蝦夷邸を襲った時に消滅した)には、
神武(実は応神)→綏靖→安寧→懿徳→継体という系譜を掲載
してあったのではないだろうか?
(無論、神武や---------継体などの漢風諡号は、天平時代の
孝謙天皇時代に、淡海三船によって、聖徳上皇までの各代の
天皇に、それまで和風しかなかった諡号を、唐風に漢字名で
一括して撰進したものである。だから、上記の部分、
「神武(実は応神)→綏靖→安寧→懿徳→継体」の表示も、
正しくは、
「磐余彦(実は誉田別)→渟名川耳→(磯城津彦)玉手看→ 耜友
(スキトモ)→ 男大迹」などと表記しなければならない。
だが、それでは難解?になるので、慣例に従って上では漢風名
を用いたのである。)
しかしその単純化が余りに見え見えだったので、記紀編纂の際
に、前応神朝と先応神朝、さらに“国譲り神話”の元になった
三輪王朝を架上して、神武→綏靖→安寧→懿徳→孝昭→-----
三輪王朝という風に、複雑な皇統譜が考案されたのだと
思われる。
その時に、三輪王朝とは別の存在に見せるために出雲神話が
作られたと考えるのだ。
しかし、私の仮説では、天孫族も黄牛族(三輪王朝)も、息長氏
も秦氏も、タリム盆地の天王族から出自したと見れば、大局的
には一系であり、先応神朝の以前に、加羅や馬韓・辰韓時代の
そして小月氏時代の;更にタリム盆地南の(いわゆる西域南道
の)地帯に居た頃の族長があった筈なのだ。口承の伝説には、
大陸時代の王統伝も、前応神朝の頃までは、残っていたのかも
知れない。
しかし、天智朝までに大陸への権益を諦めた後は、むしろ
「大和民族は日本列島で固有に発生し発展した;大陸には
無関係の民族である」ことを強調するために、九州王朝の始祖
は日向の出自を装うという神話体系が考え出されたと思う。
その結果、口承伝説には大陸時代の王名やその事跡の伝承など
があったとしても、一切を封じ込めたのである。今流に言えば
「究極のシカト」である。
そして、大陸系に所縁あるらしく見える“出雲族”から国譲りを
受けて、大和が成立したかに見せかける事にしたのである。
無論これは、記紀編纂の主体となった多氏と元はその配下で
あった中臣氏=藤原氏が唱導して、大陸国家からの干渉を防ぐ
為の、他の氏族公卿をも巻き込んだ共同幻想の創造であったと
思われる。誰も異議を出さなかったのは、大陸に成立した巨大
な統一国家=唐への恐れの共有があったからであろう。
同時に、対馬の浦部から出て卜部となって天孫族の宮廷への
出入りを許された事から下克上した藤原氏が、何度もの皇族内
の陰謀や簒奪に加担する事によって暗躍した過去を隠蔽するの
にも有益だったからである。だが敢えて挿入された物もある。
記紀には、仲哀が神功皇后の託宣で死ぬ神判の場にも、神を
降臨させる琴を弾じていた武内宿禰のほかに、中臣氏の祖を
匂わせる中臣烏賊使主なる卜部が立ち会った事になっている。
景行王朝の頃には、中臣氏はまだ存在しない。もしそれが中臣
と言うなら、それは中ツ臣であった多氏か同族の春日氏の祖で
あろう。しかし、後応神朝の時代:奈良朝になっても、仲哀の
死の顛末には、(仲哀を創造したが故にかえって)不審なものを
感じさせたであろう。「そんな昔から中臣は皇家の機微に
触れるポジションにいたのだよ!」という威嚇が込められて
いるのが記紀、特に日本書紀なのである。
※時に、現在の水巻町で名物としているのが、何と
「デカニンニク」というまさしく“大蒜”なのが興味深い。