補遺8 籠神社と丹波について

「天孫族考」補遺8 籠神社と丹波について

前回、補遺7に於いて、

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丹後の籠神社の社を飾る座玉(スエタマ)の事がある。

籠神社は、元伊勢と言われ、伊勢神宮の原型だとの伝承が

ある。昔から、籠神社が神社なのに、仏教の象徴である

宝珠が飾られることは謎とされて来た。

しかし、宝珠の原型が葱華であり、和族が葱茈族であると

知るなら、この謎は自ずと解けるのである。

(中略)

識者によれば、伊勢の本殿背後にも座玉が飾られているのだ

そうだ。宝珠=葱華であり、だからこそ斎宮も葱華蓮に乗る

のであろう。

※籠神社は丹波の地名の秘密にも関わって来る。これは、

別に補遺を立てて、論述したい。

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と書いた。

そこで、この元伊勢伝承の籠神社の謎について、天孫族考私説

の観点からは、どう解釈できるのか?

を論述しておきたい。

先ず、

以下に引用するのは、私の長年の友人で、横浜から宮崎に移住

して、そこで数年間、宮崎県下各地の(いわゆる)「日向神楽」

を記録撮影し、地元番組として放映して来ていたテレビ企画者

のKさんとのメールを編集再録したものである。

そのKさんが、故あって一昨年晩秋に近畿に移り、わざわざ

宮津の籠神社を訪ねられたというので、それについて遣り取り

したものである。(複数回のメールを纏めた。)」

メールタイトルは

☆「籠神社と久我」

【 K様 】

先日は、老齢者の体調不良の話になり、すっかりそちらが

気がかりだったので、肝心の事を聞きそびれてしまいました。

こんな日本海の荒れだす季節に、何故に丹後の宮津にまで

遠出されて、わざわざ籠神社の参拝に足を伸ばされたのか?

という件の方です。

籠神社はご承知の如く、籠をコノと読ませており、日本古代史

のミッシングリンクの一つだとされています。 元来この神社の

奥宮と後世に呼ばれる様になった所に、 豊受大神の社があり、

そこの下里に大和を出て倭姫に遷宮を委ねられた?天照大神が

一時寄寓し、最終的に伊勢に落ち着くわけですが、その縁で

豊受大神は今度は天照に呼ばれて伊勢に行き、これが外宮と

なって今に至っているわけです。 この為、内宮外宮の二柱の

神が共坐した籠神社は元伊勢と呼ばれる様になった!という

伊勢神話に関わる不思議の地であるわけです。

しかも不思議な事は、コノ神社が籠神社と書かれるように

なったのは、天照が伊勢に遷座して後に、そこへ常世?から

天火明命が籠舟に乗って漂着したので、以後は主祭神を火明命

とし、この伝説に因んでコノ神社を籠神社と表記するように

なった?という訳の分からん名前の由来譚があるわけです。

しかもまたそこは今なお神主家を海部家(こちらはカイフでは

 なくアマべです)が承継しているように、海人族系だとの説が

ある和邇氏の祖先伝承が絡んでいます。

和邇氏は、古代には大和桜井の和邇の地に本貫を構えたので

和邇氏と呼ばれたとされていますが、その本流は春日氏であり

多氏と同族と言われて、この二氏こそが、上古の皇室で 神と

王を繋ぐ“仲ツ臣”だと考えられているわけです。

※→これを研究されたのは、故・大和岩雄氏です。

(その多氏の配下で亀卜の任に当たっていたのが対馬の浦部

出身の卜部 氏であり、永く多氏の元で祭祀のみならず夷狄征略

の軍事行動に助力した功で「中臣」を称する事を許されたの

が、後世に 藤原氏となって大発展した一族です。最終的に

その藤原氏は、 多氏の祖神・鹿島の神と春日氏の祖神・春日の

神をも奪って春日大社を創設し、これに対馬の卜部の祖神・

天児屋根の尊も合祀して、藤原の氏寺と言ったのです。)

で、それらの伝承の元である籠神社ですが、これをコノと言う

のは元々コノ神社だったからという説があるわけですが、では

その 元来のコノとは何なのか?これも諸説があり不確かです。

一つの説は「神野・コウノ」で、神祭をした原野だったという

もの。勿論祀られていたのは豊受大神、即ち豊穣の神である

ホゲツ(保食)の神の事です。豊穣の神は、しばしば天候由来の

降雨や晴天を支配する神なので太陽神信仰のご利益神の異体

になって来ます。だから、太陽女神である天照の変異と見る

なら、豊受大神として伊勢に祀られる理由が理解できます。

だから、広い意味での太陽神信仰の地が神野であった、とは

考えられます。この籠神社のある辺りの字名に日置がある

のも示唆的です。神野を守護していたのは日置部だったので

ありましょう。

ですが、私はこの神野=コノも籠も、元来は同一であり、

それはコガと言ったのではあるまいか?と考えているのです。

以前、九州の水巻宮の話で言及したように、太陽神を祀る

(中国でいうところの日壇)を、我が国の上古ではクガやコガと

呼んでいました。九州でいう古賀ですが、久我もまたコガと

読まれます。敢えて書けば神峩であり、神を祀る結界地(神聖

区画)です。

神はこの場合、日神であり神峩は日峩・カガでもあります。

 (峩とは沖縄でいう御嶽ウタキに相当します。嶽とは実際上は

山の岳ではないものの、神の憑座になる磐座や神樹・神泉の

ある区画の意味です。)

水巻でも水巻三山の北側に保食神を祀る保牟田があり、南の

高地はクガと呼ばれて久我神社が祀られていました。

この関係は、久我=日壇=太陽神と保食神=豊受大神(もしか

すると月読尊=月壇)という伊勢や籠神社のセットと同じです。

私は最近、北九州から中九州(筑後・肥後北部・肥前)に広く

分布する古賀の地名は、この古代の太陽神祭祀の日峩(神峩)

の置かれた地ではなかったかと考えるようになりました。

そして、そここそ魏志倭人の条に言及された、奴国の南にある

狗奴国(kuga →kunga →kuna )ではないか?とも。 中国語には

鼻濁音がないので、モンゴル→蒙古になります。 クガ→クナと

いう漢民族での;漢訳時の転訛は自然です。

一方でコガ・カガ→カゴという転訛もあり得ます。 ですから

籠神社が太陽神を祀るクガハラなら、そこは高天原に相当する

ので、その前にある砂州は天の橋立になるのです。 また久我原

=神野→コノに他なりません。

久我神社は京都には残っていますが、近畿では日下(kusaka)

 とか高座や古座などに転訛しています。

 もしかすると甲賀kouka とか甲鹿や甲佐などに変形している

 かも知れません。(コガ系) 一方神野系では、久ヶ原や久我山、

向日、高野・鹿野・河野・ 甲野・加野・香野・香我などに

なっているかもしれません。 沖縄の久高島の久高も太陽崇拝

の地を言います。 日下系では、日置や草加、日高、比佐などに

変化したかも?と考えています。

日峩kaga(元来は日下)→日香→久坂・玖賀もそうです。

日野や日原・檜原はどうでしょうか? 日立の常陸は、そも

常なる陸kuga ですし。

地名の由来を再点検する必要性を感じます。

そして、何よりも、籠神社と天香語山命とが関わるという伝承

がありますが、この天香語山という言葉自体の香語は、恐らく

 日壇でありましょう。

ヤマトの天香久山も、実は山下で営まれた 日神崇拝の拝所(日壇)

に違いありません。従来はカグは鉱山に 由来の言葉で、往古に

この山で銅が産出したからというのが通説でしたが、実は違う

のでは?と考えるようになりました。

三輪山から昇る太陽を望む山だという説を聞いた事があります

 が、夏至か春分とか特定の節季の日の出だったと思います。

実は、大和三山の三角形内・飛鳥浄御原や藤原京の地である

のが明日香なので、それも日香からの転形かも知れません。

☆与謝コノ宮とは?

与謝コノ宮とは? 先日、丹後与謝郡の籠神社について言及した

時に、 「籠神社となったのは、祭神が火明命になってからで、

それ以前はコノ宮と呼ばれていたので、籠と書いてもその後も

相変わらず コノと呼ばれてきた」と記しました。

さりながら私は、関西では虫籠窓とか治水の技法(水制)での

荒籠とか、籠と書いてコと読ませる例があるので、てっきり

その類と思っていました。そういえば、継体天皇擁立の立役者

にも河内の馬飼首荒籠という、古代史での有名人も居り、これ

もアラコと読むからです。だからう籠(コ)之宮だろうかと。

ところが、籠の読み方の違いからでのコノ宮ではないようなの

です。

丹後国一之宮「元伊勢籠神社御由緒略記」には、その奥宮 に

ついて、以下の記述が見られます。

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眞名井神社=匏宮(よさのみや)吉佐宮・与謝宮・久志濱宮)

別稱 豊受大神宮・比沼眞名井・外宮元宮・元伊勢大元宮)

『神代より、奥宮の真名井原に匏宮(よさのみや)といい、

豊受大神が鎮座していたが、十代崇神天皇の三十九年に 大和

笠縫邑から天照皇大神が遷座したので豊受大神と共に祭祀して

いた。

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ですが、これを当たり前と思い、見過ごした事がありました。

与謝宮の別表示として、「匏宮」というものがあり、この夸偏に

包と旁る漢字「匏」をそのままヨサという訓で読むものと

考えていたのですが、物の本の一つにはこの「匏」は、 何と

ヨサコとも読むのだというのです。 つまり匏は与謝夸=ヨサコで、

この与謝ノコノ宮であるから、 コノ宮なのだという事が

わかりました。

で、この匏を調べると、この文字は我が国ではフクベと読み

いわゆる瓢箪の事なのです。一般的には瓢フクベと書くのです

が、この異体が瓠で、この瓠という字の音読みはコなのです。

従って、今は(正確に言えば“何時からか”) 匏と表記しているの

ですが、これは元来瓠の文字を用いるべきで、ヨサコとは

「与謝瓠」だという事だと判明しました。

※因みにこの偏に使われている字素の夸の字は、人が大きく脚

を拡げている象形文字で、旁に使えば跨るとか誇大の様になり

ます。夸はコと表音します。

日本では、貴種や妖精が瓢箪に入ったり舟代わりに跨って漂着

する伝説が数多くありますし、火明命が乗って来たという

「籠 (舟)」にも通じます。 穀霊が瓢箪に入って渡来する伝説

もあるので、穀霊=豊受神 として、与謝の浜に漂着したという

伝承を潜在意識下にした 上で、コノ宮の名称が発生したという

可能性もあります。

実は、中世に山伏が、一宿一飯の礼に、腰に下げた瓢箪から

寒冷地に強い稲籾粒を出して、宿主に渡すという例が伝わって

おり、コノ宮の浜に到着した貴人や部族がもたらした穀霊を

祭祀したという伝承が、与謝神になったのかとも思います。

だから籠神社由緒記の「吉佐宮・与謝宮・久志濱宮」という

表現は何かと言えば、久志濱宮というのは久志魂(奇魂)が寄着

した浜で、だから吉浜=吉沙=吉佐で、これを万葉仮名にした

のが与謝だろうと推理できるのです。

従って、瓢簞舟で来着した豊受と、籠舟で漂着した火明命には

共通性があるだろうと推測はできるものの、それだけでは何で

こんなややこしい伝承が作られたのか?までは分かりません。

火明命は饒速日の別名だとの解釈があるので、天孫族の先遣隊

が丹後経由で畿内に入った事の由来に繋がる伝説なのであり

ましょうか?

ヤマトタケルの出雲征伐の伝承もあり、これに従った海人族の

和邇氏が、丹後にも足(舟足)を伸ばして進出し、稲作を到来

した事が伝説化したものなのでしょうか?

だから和邇氏系の海部氏が、籠神社の神職を伝世しているの

かと推理されます。 因みに、海人族系でも、阿曇系及び多氏系

は海部と書いてもカイフと呼ばれ、和邇系がアマべと呼ぶよう

に思われます。

※阿曇系?には、別に凡海(オオシアマ)氏=大(氏)海氏があり

ます。天武天皇(大海人皇子)の幼時の壬生に当たった氏族で、

丹後に凡海郷があり海部氏と同族だとの伝承があるのです。

ですが凡海氏は摂津が本貫地だとの説や、上総の海上郡だった

との説もあるので、全日本沿海に、海人族の阿曇や和邇氏や

多氏の部民氏族として広汎に拡まっていたとも考えられます。

凡海氏は姓が連であり、また海部氏は直(後に連)であって、

春日氏や多氏は臣(天孫族直系の氏族の姓)ですから、いずれに

せよ春日氏や多氏が伴造であり、凡海氏や海部氏はその配下の

部民部族でしょう。

但し大宝年間の大地震で、凡海郷は沿海部が海に沈み、一部

(高地二箇所だけ)が、島になって残っているとの沈島伝説も

あります。

それでも中世になっても丹後の凡海郷はあったといい、

“承久元年(1219)9月23日付西願寺(志楽庄春日部村)宛の

僧鏡円等連著田畠寄進状案(梅垣西浦文書)に、著名人の一人

として「凡海是包」の名がみえる”といいます。

ここで春日部と凡海との間に関連性があるとの記録は、後でも

言及するように、興味深いものです。というのも、春日氏は

春日和邇氏ともいい、和邇氏の本宗氏族だからです。春日部は

職掌は違うものの春日氏の部民そのものですから。

丹後の凡海郷は由良川河口に近い所と、より舞鶴に近い所と、

二つの比定説があるようです。

※上記の志楽庄は京都府舞鶴市鹿原辺りで、JR舞鶴線の松尾寺

という、東舞鶴よりも高浜寄りの山間部で、平安後期には一時

平忠盛・清盛の父子の領地にもなった事が伝わる地です。

☆饒速日B

火明命が饒速日の異名だとの現地の説があるわけです。しかし

饒速日は日本神話では、生駒に降臨して長髄彦の妹媛?の婿に

なり、子孫を残した後、遥か神武よりも前にヤマトで没した事

になっています。そうすると、丹後の火明命は、三輪王朝時代

倭姫が一時コノ神社に皇大神宮を合祀して、更に伊勢に遷宮

した後に、籠舟で漂着したというのですから、神話的には

火明命は饒速日ではあり得ません。しかし、籠神社と表記される

以前は匏宮だったというのが、実際は逆で、火明命が籠舟で

漂着した故地に、倭姫が天照を勧請したのだとすれば、最初が

匏宮であった(つまり籠舟ではなく瓢箪に乗った神、それが穀霊

=保食神=豊受ホウジ→トヨウケだった)からではないかと思う

のです。(それなら火明は三輪王朝より以前の事になるのです)

すると火明というのは穂有可里で、饒速日ではなく穀霊・保食

その物だったかも知れないと想像も出来ます。

更に饒速日の饒の字は食偏が付いており、饒速日が豊受の異体

だとも考えられなくもありません。

饒速日は、龢族=和族の東征先遣隊長であったと想定すれば、

ヤマトに降臨した饒速日Aもあり、丹後海岸に舟で来臨した

饒速日Bなどもあったとも言ってよいのかも知れません。

また火明命が海人族なら、その火明とは帆灯か?とも考え

ました。帆前船が何時発明されたのかは分かりませんが、原始

的な一枚帆の舟は、海人族が淮河流域にいた頃からあったので

はないでしょうか?綿津見族が、南韓から北九州へ渡来する

のに、手漕ぎ舟だけで来られたのかどうか?

もし海人族が既に簡単な帆前船を操っていたのなら、帆灯とは

帆舟を導く“明かり”の事かもと考えられるからです。

白い岩を研磨して太陽光を反射させる鏡岩を、縄文人が沿岸

航路の目印にしたとして、これを「縄文灯台」と命名したのは

古田武彦氏でした。

しかし、私は沿岸航路が発達したのは、海人族が渡来した縄文

末期以降であり、更に鏡岩を研き出す技術を持った石工集団は

加羅からの秦氏系渡来人で、後の穴太衆になった人々であると

考えているので、縄文灯台というのは適用時期尚早であり、

古代灯台というのが穏当か?と考えて来ました。

古代灯台の鏡岩は瀬戸内側が確実視されているのですが、山陰

側にも長門から丹後まで点々と沿岸に設置されていて、航路の

目印になっていたのかもしれないと思います。

元来、瀬戸内側と並んで山陰側にも鏡岩になり得る花崗岩が

あったと考えられるからです。

さりながら、火明命は和邇氏の祖先伝承にも関わってくるよう

なので(世襲神職の海部氏が和邇系だとされるからですが)、

饒速日BはAでは無さそうです。というのも、饒速日Aは周知

の如く物部氏の祖先伝承に関わっていますから、和邇と物部の

両氏族には擬制的な同祖伝承も無く、全く別系統の氏族である

からです。物部はやはり出雲系氏族であり、和族の波羅門=

つまり禰宜職である和邇氏とは異なります。

和邇氏即ち春日氏は、古くから皇妃を出せる臣の姓を持つのに

大連にまでなり得る物部氏は皇妃を出すことが出来ません。

和族には、月氏の時代からレビトラ婚の習俗があり、血族の血

の濃さを重視するので、一族からしか婚姻しないのです。

(例外的に、連でしかない尾張氏が、皇妃を出しているのは、

専ら欠史八代の大王についてです。尾張氏は和邇氏と姻族に

なっているので、尾張氏の血には和邇の血が入っているから

許容範囲とされたのか?また尾張氏は多氏の連携氏族でもあり

だから日本武尊との婚姻譚も生まれている!だがこれは尾張氏

系統の氏族を、壬申の乱の功臣として称揚する為の、記紀筆者

のリップサービスなのかも知れないのです。)

また火明命=饒速日説については、以下の批判があります。

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記紀、本紀、勘注系図の成立順番は、記紀→本紀→勘注系図と

するのが妥当であろう。したがって勘注系図にて火明命と

饒速日命が同一とされているのは本紀を参照してのことと

思われる。自らの祖先が天孫族であるという由緒ある系譜で

あることは海部氏にとっては肯定こそすれ否定する必要のない

ことであった。このことから、本紀、勘注系図とも饒速日命と

火明命を同一としていることに大きな恣意性を感じざるを

得ない。いずれも記紀以降の成立であり本紀においては

物部氏、勘注系図においては海部氏が自らの系譜の権威を

高めるために仕組んだことと考えるのが妥当であろう。

したがって、饒速日命の降臨について本紀、勘注系図を参照

することが可能であるが、饒速日命が火明命と同一人物で

あったことについては考慮しないこととしたい。

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上記は、KINDLE本の「古代日本国成立の物語~邪馬台国vs

狗奴国の真実〜」の著者:小嶋浩毅氏のブログの記述ですが、

その本紀とは「先代旧事本紀」という古書で、物部氏が氏族の

大和王権内の重要性を訴える為に創作したものというのが通説

です。勘注系図は籠神社神官海部氏の系図(国宝)の一書です。

小嶋氏の、上記の著書の内容については、また色々な批判も

あり、私も疑問に思う仮説があるのですが、事この火明命と

饒速日同一視説に対する批判は妥当なものと思います。

そも饒速日という実在性の薄い伝承上の人物はさておき、

和邇氏の系図を見てみると、興味を引く点があります。

和邇氏の系図というものは、多くの研究者がそれぞれ幾つかの

資料(記紀を含めて)から様々な系図を想定しています。

その中で、平均的な系図と思う物で見ると、単なる名前だけの

伝承上の人物が多い中で、記紀の神功皇后伝説に絡んで活躍を

フィーチャーされる英雄が登場します。それが建振熊です。

この人物が、神功皇后の三韓征略に同行し、また忍熊王が

神功の留守に反乱を起こした?戦いの反撃戦に於いてどうやら

奇襲で攻めて、最終的には忍熊を殲滅する功を上げたという

人物です。

建振熊が根拠地にしたのが丹波であったので、忍熊鎮圧の功に

よって、建振熊は丹波・丹後・但馬の三丹広域の大国造(各地

の国造の複数者の上位統括者、国上造:クニノウエツミヤツコ

という言い方もあるようですが)に任じられた、という英雄

です。(武内宿禰と同様に、建でなく武振熊の表記もあり)

そしてこの建振熊こそが和邇氏の祖だと云われるのです。

またこの建振熊には難波根子とか難波宿禰という異称があると

言われています。但しこの大活躍の英雄は、実は父子二人で

あって、新羅戦に参軍したのが父親の建振熊=難波宿禰で、

忍熊征圧戦を戦ったのは息子の建振熊=難波根子だという説を

唱える人もいるようです。更に、その息子の建振熊Jrは、別の

系図で建振熊の子とされもする矢田宿禰という人物がおり、

その人物の事だと主張する人もいるのです。さらにややこしい

のは、矢田宿禰も父子で、父が大矢田宿禰で矢田宿禰はその

息子だという人までいて、では大矢田宿禰は建振熊Srの事に

なるのでしょうか?

さりながら建振熊なんてのも伝説上の人物であり、第一 神功

皇后の三韓征伐は、記紀編纂時のでっち上げでしょうから、

それに従軍したのは父子のどちらか?なんて考えても無意味と

しか思えません。

(とはいえ、神功皇后の三韓といっても実際は対新羅戦ですが、

それ自体は架空にせよ、朝鮮側の広開土王碑にある様に、倭人

が大挙?韓半島に攻め込んで来たのでこれを撃退した?という

日韓戦があったことは歴史的事実です。この時渡海して戦闘に

臨んだ倭人の大将軍は誰だったのか?そしてそこに参軍したの

が建振熊(父)だったのかも知れないのです。)

但し建振熊に難波宿禰もしくは難波根子という難波という名称

が付いているのは、もしこの難波が難波宮のあった河内の難波

(浪速、浪華?)を意味するのなら、それは応神朝以降の、河内

王朝の営んだ日下(斎日壇)に関わるので、建振熊(父)がまだ丹波

人の時代であって、難波宿禰と呼ばれるのは不適当です。

だから難波宿禰も息子の建振熊の方であると思います。そして

河内の日下(草香)の太陽神祭祀施設である日下(カガ)に奉仕した

神職は春日氏だというのが(※「天孫族考」本文に述べた如く)

私の年来の説なので、そうであれば建振熊(子)が難波根子との

異称があるのは腑に落ちます。建振熊は和邇氏の祖だという

ので、もしその本宗一族なら春日氏でもあるからです。春日氏

は和族の禰宜(神職、根子)の家系だからです。

(但しこの難波は河内の地名に因むものとは限りません。もしか

すると岡山の難波氏かも知れないからです。※→後述。)

ところで和邇氏系図では、もう一つ大事な点を指摘しておき

ます。

それは和邇氏が孝昭天皇の後裔という伝承がある事です。

孝昭天皇は、以前述べたように、私は実は九州王朝の開祖が

孝昭天皇即ち観松彦香殖稲=稚松日子岡江根耳だと考えて来た

からです。

その息子(である孝安天皇)が日本足彦国押人でタラシ系王家で

ある九州王朝の高宗だと考えます。

そして和邇の系図にある天足彦国押人は、日本足彦国押人の兄

だとの伝承があるのです。また建振熊以前に、和邇氏の祖先で

ありそうな名も見られます。

記紀は、藤原氏=中臣氏の存在を前に出すために、氏神さえ

簒奪した春日氏や多氏の祖先の役割を間引いてあるので、恰も

建振熊が和邇氏春日氏の祖宗であるかの如くになっていますが

実際はもっと古い由緒がある氏族だと私は考えているのです。

恐らくパミールにあった月氏和族の時代から、族長たる王家の

一族で、祭祀を司っていたのが春日氏の祖先だったのではない

だろうかと。

☆五色の座玉について

籠神社社殿の欄干に飾られた五色の座玉(据え玉)は、仏教の

如意宝珠の形をしているので、神仏習合の名残りか?という

説もあるようです。

この籠神社の山続きにある世野山成相寺は、中世から近世に

かけて成相寺修験という修験道の一大勢力の地でした。

また籠神社の別当寺も真言宗醍醐寺系の天蓋山大谷寺です。

大谷寺もまた修験の寺と見え「全盛期は金剛薩垂院・尊勝院・

往生院・大聖院・向坊などの諸院があったが、向坊のほかは

慶長年間廃された」といいますが、実際は成相寺の勢力下に

入ったのだろうと想像されます。

ですが、残った向坊が今の大谷寺の本堂となり、そこに在る

不動明王が黒不動として、江戸期には土地人の尊崇を集めて

いました。大谷寺から成相寺への参道を大谷道もしくは不動坂

というようです。

成相寺の勢力下に入っても、丹後一宮の籠神社の別当寺であり

続けたのは、大谷寺が「元は山城国醍醐にあったが、養老3年

当地に移建。東寺と格を等しくした」という伝承があり、その

由緒は無視できないものだったからでしょう。

ですから、この修験の勢力地だったので、籠神社の欄干に、

仏教の如意宝珠が付けられたのだろうと考える識者があると

いう事なのです。

籠神社の座玉は、緑・赤・黄・白・黒で、仏教の五色とほぼ

同じになっています。神社の場合は通常五色の幡が立てられる

のに、仏事では幔幕になっている事が多いわけです。(但し、

緑→青、黒→樺もしくは紫の変形もあるようです。)

とはいえ、この五色は仏教固有ではなく、道教の五行、即ち

木火土金水の表示色であり、古神道に影響している可能性は

あるでしょう。

しかもそれが伊勢神宮にもあるとするなら、仏教以前の由緒

があろうと考えるべき!と思えてきます。

(もっとも、伊勢神宮さえも中世までは神仏習合であったので、

軽々に“座玉は仏教の影響では無い”とは言えませんが。)

伝説では倭姫が、元伊勢籠神社から伊勢に皇大神宮を遷す時

案内したのは大田命というので、これも太氏・和邇氏と関係

があるかもしれないのです。(一応大田命は、三輪神社の祭祀

に関わった大田田根子;それは従来出雲系の系統とも言われて

いますが。)

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(さて以下は、今回の補遺執筆で書き足した論述である。)

☆丹波の国名由来について

「丹波」の名称と由来を、安易ながらWikipediaで見ると、

“主に「丹波」が使われているが、古くは「たには」とも称し

「旦波」「但波」「丹婆」「谿羽」などの表記も見られる。

藤原宮跡出土木簡では例外を除いて全て「丹波」なので、

大宝律令の施行とともに「丹波」に統一されたと考えられて

いる。

『和名抄』では「丹波」を「太迩波(たには)」と訓む。

由来として『和訓栞』では「谷端」、『諸国名義考』では

「田庭」すなわち「平らかに広い地」としているが、後者が

有力視されている。 また、国が分割される場合、都に近い順

に「前・中・後」を付けて命名されることが一般的であるが、

律令制以前の旧丹波が分割されたとき「丹波」の地名は

そのまま残り「丹波国」となった。現在の京丹後市峰山町に

「丹波」という地名が残るが、これは旧郷名・旧郡名であり、

旧丹波郡が丹波国の中心とも言われている。

古代律令制以前は但馬、丹後も含み丹波国造の領域とされ、

現在の京都府の中部と北部、兵庫県の北部と中部の東辺に

加え、大阪府の一部にも及んでいた。7世紀の令制国成立に

伴い、但馬地域が分国し但馬国となり、また和銅6年(713年)

4月3日北部5郡が丹後国として分国、そして都に近い郡は

 「丹波国」となった。現在では丹波・丹後・但馬を「三丹」、

但馬を含まない場合は「両丹」と総称することもある。

丹波国は大まかに言って亀岡盆地、由良(福知山)盆地、篠山

盆地のそれぞれ 母川の違う大きな盆地があり、互いの間を

山地が隔てている。このため、丹波国は甲斐や信濃、尾張、

土佐のように一国単位で結束した歴史を持ちにくい性質が

あり、丹波の歴史を複雑化した。地域性として亀岡・八木・

園部の南丹(口丹波)地方は山城・摂津と、福知山・綾部の中丹

は丹後・但馬 と、篠山は摂津・播磨と、氷上は但馬・播磨に

密接に係わる歴史を持った。

古代丹波国の豪族と大和朝廷とのつながりを示す伝承は、

継体天皇即位前紀に 大連大伴金村が「丹波国桑田郡」の倭彦王

を推戴する物語などにみられる。

「記紀」ではともに「たには」と読む。

国名の丹後は 大和からみて丹波の後方であるという意味である

が,丹波の国名のもととなる丹波郡は丹後に入れ られており,

旧丹波国の中心はむしろ丹後地方であった可能性が高い。”

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となっているのだが、

「田庭」語源説が有力との解説は全くいただけない。

田庭ならタニワであり、タニハではないからだ。

>> 『和名抄』では「丹波」を「太迩波(たには)」と訓む

というのが重要で、私はタニとは太迩=太禰つまり和邇で

あり、太禰端は和邇氏の宰領する地域の意味ではないか?

と考えるのである。

由良川を扼する宮津湾は、日本海の制海権上で重要な所であり

海人族の中でも綿津見族の頭領であった和邇氏つまり太禰氏

(春日氏と同族・多氏を含む九州王朝の水軍の将軍)が、大田と

宮津の両地を押さえたのは、間にある出雲の地を睨んでの事

ではなかったろうか?

石見の大田は江の川を、宮津は由良川を制する為である。

二つの川は、古代に於いて、日本海と瀬戸内海を結ぶ(縦の)

“江”であった。江とは、中國の原義と異なり、我が国古代では

「重要な地点間を結ぶ水路になっている狭い海峡や河川」を

意味する言葉であった。

江の川は上流の三次で、西南に流れる太田川となり広島湾に

抜け、また東へは芦田川の支流を通って鞆の浦に通ずる。

つまり三次とは三地方を継(次)なぐ所に他ならない。

両方に太氏に由来する「太田」「大田」の地名がある。

氏名の難波は、実は大阪の氏名ではなく、岡山に多い氏名だと

言った。だから、和邇氏の建振熊が難波宿禰という異名を持つ

とすれば、和邇氏がまた江の川経由で備後に進出していたと

いう可能性も出てくる。そうなら建振熊の父が難波宿禰の呼称

でもおかしくはないと考えた人もいる。

だが、岡山の難波氏は、芦田川流域(備後)よりも、備中(吉備)の

方に多いといい、その進出は、飛鳥時代であるとの説もある。

吉備の難波氏は大和葛城国造(三島)剣根命の後裔であるとの

祖先伝承を持つという。

日本書紀の欽明朝の記事に、「蘇我大臣稲目宿禰を備前児島に

遣わして、屯倉を置き、葛城山田直瑞子を以て田令となす」と

ある。この瑞子は、葛城剣根後裔で、この一族が後に難波氏と

なったというのだ。

もしそうなら、吉備の難波氏は、難波宿禰とは無関係となる。

そして由良川の方は、支流の黒井川が氷上の水界で、加古川の

支流高谷川と分岐するのである。(もっとも正確に言うなら、

高谷川が氷上で黒井川にも分流し、右側は黒井川→由良川経由

宮津湾に注ぎ、左側は高谷川→加古川経由で播磨灘に注ぐのであるが。)

☆氷上の水界について

この氷上の水界は、俗に氷上の回廊とも呼ばれる。日本海側の

由良川から瀬戸内の加古川へ抜ける“江”であり、和邇の水軍の

通路だった。神功皇后伝説では、①近江出身の息長足日媛が、

仲哀天皇の九州征伐に加わる為、若狭の水軍を率いて氷上の

回廊経由で瀬戸内に出て、長門の国で追い着いた事になって

いる。しかしまた②忍熊王の反乱?を鎮圧する為神功皇后が

筑紫から東征した時に、(和邇氏の祖である)建振熊が丹後から

氷上の回廊経由で来て、側背から忍熊王を攻めたという伝承も

ある。

私は、①は後付けで、②こそが真実だったのではないか、と

考える。第一、仲哀が九州へ熊襲征伐に行くのに、皇妃が水軍

を率いて参軍する理由が分からない。息長足日媛が巫女であり

西征軍の守り神とか託宣神女であるから同行するとしても、

近江からわざわざ日本海に出て氷上の回廊経由で加古川河口に

出るのは不自然である。近江から山背→淀川→難波津という方

が順路であり安全であろう。それとももう仲哀がヤマトを出る

時から、香坂王・忍熊王兄弟の反乱が予想されていて、彼らの

勢力範囲である摂津播磨を経由したくなかったというのか。

それでは仲哀が皇妃を残して先発するのも理に合わない。

だから、①の伝承は、実際には息長足日媛は近江から出たので

はなく、恐らくは宇佐の息長氏の出だったのを、また架空の

仲哀を記紀に創作してその皇后とする事で、九州王朝の日下

建(ヒノモトタケル)=武内宿禰がその妻にした息長媛と嫡子の

誉田別(応神)を連れて東征したのを、ヒノモトタケルの息子が

仲哀であるとして、九州王朝と三輪王朝を連続させようとした

作為を隠蔽する為、息長足日媛を近江の息長氏の出身であると

見せかけるための“参軍経路伝説”だったのだろう。

②の方は、戦略としても有効であったろうと思える。

恐らくは、日本武尊の出雲征伐伝説は、和邇氏の日本海の

制海権掌握の経略の伝承ではないだろうか。

神功皇后が、一旦備後の鞆に寄港したのも、江の川を通って

芦田川経由で参戦した石見の大田あたりの和邇水軍の到着を

待った為ではないか。そして丹後の和邇水軍は氷上の回廊経由

で奇襲に参加したという筋書きだったのだ。

この戦い(つまりヤマトの出雲族を頭にした倭族の連合王権との

列島の覇権を巡る戦い)に備えて、武内宿禰は、和邇氏に江の川

と氷上の回廊の二つの“江”を押さえさせていたのだろう。

氷上の水界あたりは、勿論氷上というのが地域名であるが、

実はこの氷上を含む広域名は春日というのである。また黒井川

の北流した辺りには春日部という地名さえある。つまりはこの

氷上の水界あたりは春日氏即ち和邇氏の領分であったという事

なのである。

因みに、黒井川の流域には戦国期には山城の黒井城があった。

赤松氏の持ち城だったが、戦国末期は明智光秀領となり、宿将

の斎藤利三が城主だった。この斎藤利三の娘が福であり、稲葉

氏に嫁した後、家康に仕えて家光の乳人になった。斎藤福こそ

春日局と呼ばれた女性である。出身地が斎藤利三が治めた春日

地方だった事に因る名称である。

☆丹波の丹は鉛丹か?

ところで、タニハは何故、わざわざ丹の字を使うのか?

丹というのはニであり、赤色の事だ。普通には丹生などの言葉

が連想される。この丹は水銀朱のことだ。

一方、丹波の丹は、恐らくは鉛丹の事であると思う。

鉛から作られる朱色である。

大江山周辺が鉛鉱山として有名である。これも由良川の水運に

よって運ばれた。

大江という地名自体が、太氏(和邇氏)に関わる名前だと思う。

氷上の回廊というのが太江だったのかも知れない。太江に臨む

山が大江山か。

何故そういう理屈が成り立つかといえば、和邇氏の配下の海人

である凡海氏は、単なる水軍の将兵ではない。

天武天皇の壬生である一族を代表して、天皇の喪葬儀での殯

(もがり)に於いて誄(しのびごと)を読んだのは、凡海麁鎌

(オオアマノアラカマ)であったが、凡海麁鎌は後に大宝年間、

陸奥国に金の探鉱に派遣されたという。

そこから凡海氏は、和邇氏の連れてきた韓半島からの探鉱冶金

をも職掌とする部族ではないか?と推定されている。

谷川健一氏は、

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女胎から取り上げた子供を丈夫に育てることが、たたら炉から

溶け出た金属を鍛えるという作業に重ねられ、そこから皇子や

貴人の子供には丈夫に育つようにとの願いを込めて鍛冶や冶金

に長けた氏族が壬生(養育係)として選ばれる習いがあった

のではないかと推測し、(中略、阿曇氏も)海部の伴造という

海洋氏族であると共に朝鮮半島との交易を通じて金属器に深く

なじんだ氏族でもあった可能性を(指摘し、---------)

また凡海氏も冶金技術に優れた氏族で、そのために天武天皇の

壬生に選ばれたのではないか、少なくとも麁「鎌」という名前

や冶金のために陸奥国に派遣されたことから、麁鎌が鉱山採掘

や金属精錬に詳しい人物であったと思われる

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とする。

だから古代の大江山は、凡海氏の開発した鉛丹鉱山だったとの

可能性があるのだ。鉛丹の赤色が、後世に大江山の赤鬼伝承を

連想させる。

古代に春日氏(和邇氏)の統制下にあった春日地域から由良川の

流域も、中央で春日氏が藤原氏によって実権を喪失した中世に

なると、春日部や凡海氏の統制を離れた地方は独立して土着し

割拠した武力集団化していく。これが大江山の鬼伝承になって

行ったのではないかと推理するのである。大江山の太氏残党は

赤備えの鎧を纏い、牛角兜をかぶっていたかも知れぬ。それは

鬼に例えられたのであろう。彼らは氷上の回廊を使って、播但

地域まで寇掠したのだろう。この畿内に近い狼藉が都に鬼の

恐怖を伝染させ、源頼光の鬼退治への派遣になったのか。

大江山の他にも鉛丹の鉱山が北丹地域に複数あったのだろう。

それがタニハを丹波と書く事になった由縁ではないか。

一方で、凡の字と丹の字は似ていなくもない。凡に横一線を

加えると丹になる。実は凡の字自体が太の字の略体異字だと

する人もいるのだ。

一見突飛に聞こえるだろうが、和邇は丸邇とも書く。丸は輪で

あるので、丸邇でワニだというのが通説だ。

だが、この丸の字もまた太の異字体である。つまり太邇→ 丸邇

→凡邇→丹邇で、太邇波は丹邇波なのである。

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