補遺17「謎の員弁族」続の3「蘇我対物部」
天孫族考 補遺17「謎の員弁族」続の3「蘇我対物部」
◯蘇我対物部の対立(丁未の乱) 物部宗家の滅亡について
従来それは崇仏派対崇神派の構図で取り上げられてきた。
蘇我・物部それぞれ二世代に亘る、しかも大臣と大連の抗争である。
また蘇我は武内宿禰系を自称しており、それなら天孫族である。一方物部は出雲族系の豪族。共に継体天皇擁立に協力しあった。にも関わらず権力闘争を行い、遂には武力衝突となった。
蘇我は稲目〜馬子、物部は尾輿〜守屋。
だがこの抗争の裏には員弁の支配権を巡る対抗関係もあったと思われる。
これは、屯倉と大蔵の運用者であった新興官僚の蘇我氏と、それに対抗する部族領的支配地及びそこの部民の統治者(としての旧勢力)であった物部氏との対立に本来の原因があったと考えるからだ。
古代は一世一都制であり、大王が変われば(日嗣の度ごとに)遷都していた。
この為、猪名部=宮木部を支配下に置く物部は、事実上の造宮城司でもあったので、兵器蔵の管理者兼陸軍指揮者という軍事氏族というだけでないパワーを有していた筈である。また家具調度品の細工師の多くも員弁に属していたと考えられる。
大蔵の長官であり、備前と播磨に直轄の屯倉を開いて、王室経済の安定化に貢献したのは、蘇我稲目であった。この地域の員弁は、支配関係からすると物部宗家の管領する部民であるが、大蔵蘇我側からすれば調としての大工職の労役(匠丁)を提供したり、また宮室の用材を提供するという蔵部でもあったのだ。
その為、崇仏派であり造寺家である蘇我氏が、備前播磨の屯倉の員弁と材木の使用権を巡り、員弁の統括者だった物部宗家との対立に発展して行ったものと考える。排仏派の物部からすれば蕃神(如来・菩薩)を祀る寺の建設に、自分の材木を使わせるのはもっての他と考えていただろう。
それが表面的には崇仏対崇神のイデオロギー対立だったかの様に単純化して見られた。(いや、後世そういう単純化する意図が働いたのだろう。)
中臣氏は二つに分かれた。崇神派の中臣と屯倉管理者の河内の中臣である。
後者は蘇我氏側についていた。崇神派中臣は中央の中臣で、こちらは鹿島の中臣の系統でもある。代表者が中臣鎌子、中臣勝海。
この抗争の結果、中臣の宗家は一時鹿島系から河内系に交代したという説もある。
(乙巳の変で蘇我入鹿を討った中臣鎌足は鹿島系であろう。中臣には、鹿島系・中央系・河内系の3系統があり、これが後に、春日大社の祭神三座に反映される。)
◯蘇我稲目
時に、稲目という名だが、これは何を意味するのか?
彼の父は高麗、祖父は韓子、祖先は満智で百済人だと言う説もある。
高麗の名は、韓子の妻が高麗人であったからだという。
ところが、稲目については母についての伝承が無い。
稲目の子は、馬子、そして蝦夷・入鹿と続く。こちらは守護霊的強者の名?だ。(勇武名ともいい、後世の悪源太とか悪七別当などの悪もその延長下の観念である。)
蘇我系図の中で、稲目の名だけが異質な感がする。
そも稲目、稲の目?とは何を指す言葉なのか?
目とは、顔にある視覚器官つまりマナコ(眼)のほかにどんな意味があるのか?
夜目遠目、贔屓目などは目そのものとその延長上の言葉だ。ちょっと飛べば繋ぎ目とか縄目などが直ぐに思い浮かぶ。共に目に着き易い何らかの特徴の存在をいう。
何か呪術的意味があるのだろうか?
これをデジタル大辞泉「目」の解説で見ると、実に多岐に富む。
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め【目/▽眼】
[名]
1 物を見る働きをする器官。光線・色などを感受して脳に送る感覚器官で、脊椎動物では眼球およびその付属器の涙腺などと視神経からなる。
「澄んだ美しい—」「—をあける」
2 物を見るときの目つき。まなざし。
「するどい—で見る」
3 物を見る能力。視力。「—が悪い」
4 見ること。見えること。「お—にかける」
5 注意して見ること。注目。「世間の—がこわい」
6 見分ける力。洞察力。「私の—に間違いはない」
7 見たときの印象。外観。「見た—がよくない」
8 その者が出会ったありさま。体験。「つらい—にあう」「いい—を見る」
9 位置・形状などが1に似たもの。
㋐主要な点。物の中心。「台風の—」
㋑眼球の形をしたもの。「うおの—」
㋒縦・横の線などが交わってできるすきま。「網の—」「碁盤の—」
10 線状に1列に並んだものの間にできたすきまや凹凸。「櫛くしの—」
11 のこぎりの歯や、やすり・すりばちなどの表面に付けた筋。「—立て」
12 賽さいの面につけられた一から六までの点。また、振るなどして表れたその数。「賽の—」「いい—が出る」
13 《12から転じて》よい結果になる可能性。「優勝の—はもう消えた」
14 囲碁で、連結が完全な石で囲んである空点。「—が二つで活いき」
15 物差し・はかりなどに数量を示すために付けたしるし。「はかりの—」
16 はかり・升などではかった量。重さ。「—が足りない」
17 木材の切り口に現れる年輪の線。木目もくめ。
「—の粗い板」「正まさ—」
18 文様または紋所の名。方形またはひし形の中心に点を一つ打った形の
もの。「五つ—」
[接尾]
1 数を表す語に付いて、その順序にあたる意を表す。
「二番—」「一〇年—」
2 動詞の連用形に付いて、その状態にあること、また、その状態にあるところを表す。「弱り—」「落ち—」「結び—」「別れ—」「こげ—」
3 形容詞の語幹に付いて、そのような性質や傾向をもっている意を表す。「長—」「細—」
4 数を表す語に付いて、匁もんめの意を表す。「百—」「一貫—」
[類語](1)眼・アイ/(2)目付き・眼差し・目遣い・目元・目くばせ・目顔・目色・炯眼・眼光
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これだけあっても、実に稲目に該当しそうな意味合いが全くない。
また稲ではなく、他の穀物で考えても、麦目とか粟目などと言うものがあるのだろうか。
(実目とか果目なども、また豆目も)これも無い!と言う事は、稲目とはイナメではなく別の“イナ+?”が訛ったものではないかという疑いが生ずる。稲見あたりでは?
そのように考えてみた。
もしかすると稲目は猪名部と関わるのでは無いだろうか?と思いついた。
つまり、稲目の母が員弁の出身だったかも知れないのだ。
もし稲見なら印南と同じで、印南は猪名部に関わる名とされている。
彼の父は高麗、祖父は韓子だが共に親の出自に関わる名である。だから稲目もまた母親に関わるのかと推理する。
一方馬子は、午年に生まれた息子の意味らしい。蝦夷と入鹿は言霊信仰的な勇武名だろう。毛人や熊とか猪とかを含む名と同様である。
彼と組んで物部討伐の陣営に加わった厩戸皇子も、馬に関わる名が付いているが、こちらの場合は壬生が宇佐系秦氏(白馬族)だったからだろう。
(後世だが、不比等の子の藤原宇合は元は馬養の名だったが、遣唐使の途路に宇佐に立ち寄り、宇佐の宇の字を用いて宇合と改めたという。以後、藤原氏は宇佐神宮との親和性を増して行く。宇佐に深く関わる氏族に和気氏がいるが、和気+藤原+秦の三氏は平安京の建設トリオである。)
対物部戦線には、馬子と厩戸の二人のウマが同盟したのである。無論厩戸も蘇我系血筋(父用明天皇、母穴穂部間人皇女、共に稲目の孫に当たる)である。
時の推古女帝も自らは蘇我の子と言っていたという。
稲目と尾輿が争う兆しがあったが、一方で妥協の動きもあり、尾輿の死後、(系統を異にする?との説もある)守屋が宗家を継いだ時に、守屋の妹を馬子に嫁がせている。(異説では物部贄古の妹とする。石上贄古も物部の一族。尾輿の子。守屋の異母弟か。)
蝦夷はその物部夫人の子である。つまり守屋の甥。守屋は馬子の義兄なのである。(後の争い方からすればやはり贄古の妹の子の方なのかも知れない。)
さりとて、両者には大王の後継者を誰にするかを巡る争乱もあった。
だから、人・物・権力の争奪戦である。
権力争いの方は、以下の要約を参考にする。
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敏達14年8月、敏達天皇が崩御。葬儀の殯宮で馬子と守屋は互いを罵倒。
橘豊日皇子(欽明天皇の皇子、母は馬子の姉の堅塩媛)が即位=用明天皇。
用明天皇の異母弟の穴穂部皇子は皇位を狙っており、不満を抱く。
穴穂部皇子は守屋と結び、先帝・敏達の寵臣三輪逆を殺害させた。
用明天皇2年4月(587年)、用明天皇は病になり、三宝(仏法)を信仰することを欲し群臣に諮った。守屋と中臣勝海は反対。馬子は詔を奉ずべきとして、穴穂部皇子に豊国法師をつれて来させた。守屋は怒ったが、群臣の多数が馬子の味方であることを知り、拠点の河内国へ退いた。
程なく用明天皇が崩御。守屋は穴穂部皇子を皇位につけようとしたが、同年6月、馬子が先手を打ち炊屋姫(敏達天皇の后)を奉じて穴穂部皇子を殺害した。同年7月、馬子は群臣に諮り守屋を滅ぼすことを決め、諸皇子、諸豪族の兵を集め大軍で挙兵した。馬子軍は河内国渋川郡の守屋の居所を攻めるが軍事氏族の物部氏の兵は精強で稲城を築いて頑強に抵抗し、馬子軍を三度にわたり撃退した。
蘇我氏側に付いていた厩戸皇子(聖徳太子)が四天王像を彫り戦勝祈願し、馬子も寺塔を建立し、仏法を広めることを誓った。馬子軍は奮起して攻勢をかけ、迹見赤檮が守屋を射殺し、馬子は勝利した。
(※この時の厩戸皇子軍の将軍が秦河勝であった。)
同年8月、馬子は泊瀬部皇子を即位させ、崇峻天皇とした。炊屋姫は皇太后となった。
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この後、馬子の専横に立腹する崇峻が大王親政を図ろうとして馬子に暗殺されるという事件に発展する。
更に、不可思議なのは、蝦夷の系図で
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蘇我蝦夷
父:蘇我馬子
母:物部尾輿娘・太媛(物部守屋同母妹)もしくは
物部鎌足姫大刀自(物部贄子妹。守屋の異母妹か。)
兄弟
河上娘、善徳、(蝦夷)、刀自古郎女、
法提郎女、川堀、倉麻呂、杲安 ※善徳は出家
子
入鹿、物部大臣、手杯娘(舒明天皇妻)
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で、ここに見られる“蘇我物部”であるが、蝦夷の妻女にも物部の娘がいたのだろうか?(これは、守屋を滅ぼした後なのか前かは分からない。守屋の滅亡後、馬子は自らの妻女が物部氏の娘なので、物部氏の祭祀していた石上神宮の神主の任命権も掌握したという。いわば蘇我本宗家であると同時に、物部宗家にもなったという積もりだろうか。)
だが蝦夷の妻女の名は、また入鹿の母の名も伝わらない。
蘇我物部の方は、当然物部夫人の子だから物部なのだろうと思われる。
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物部大臣は、飛鳥時代の豪族。蘇我蝦夷の子。蘇我入鹿の弟。実名不詳。
皇極即位後、蝦夷により勅許もなく入鹿が大臣とされた際、その弟もまた「物部大臣」としたとされる。
つまり、蝦夷が勝手に息子二人を大臣に任じたという事になる。
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(※だが、蘇我物部が本名でもあると考えられる。)
トンデモ説には、物部大臣は実は中臣鎌足だとする人がいる事である。
というのは物部贄子妹(贄子の娘という異説もある)が鎌足姫大刀自の名であるので、その子であるのは蘇我物部鎌足で、蘇我物部又の名は蘇我鎌足、いつからか改めて、中臣鎌足であるとする説である。
だが、蘇我物部あるいは蘇我鎌足までは分かるが、それが中臣になるのは何の根拠もないので、あり得ないと私は考える。
そも鎌足とか鎌子という名は、この時代には、他にもあり得た名前だと思うからである。
また中臣鎌足が蘇我物部だとすると、鎌足は父親である蝦夷を裏切り、兄の入鹿を暗殺するのに手を汚した事になってしまう。いくら権力争いが背景にあってもそこまでの破戒は無いだろう。(兄弟が争うのは王家だからだ。)
但し、こんな説が出てくるほど、乙巳の変(大化の改新)以前の鎌足についてはよく分からない点が多いという事なのである。
こうして整理すると、蝦夷と守屋の戦闘は、単に崇仏派対崇神派の争闘ではなかったのだ。しかも崇仏の結果たる寺院造営にかかる材木やそれを用いる宮木部・宮大工という員弁族への統括権の問題が極めて大きなものだったと理解できるだろう。
この後、厩戸皇子は腹心の秦河勝と組んで、広隆寺、四天王寺、法隆寺など大寺を次々と建立していくのである。そして、猪名部の崇敬神はいつからか聖徳太子になっている。
関西の大工職の仕事始めである「釿(=手斧チョウナ)始め」
は広隆寺で行われる。
蘇我対物部の争闘については、従来の解釈では、上部構造(政治権力と宗教政策)での抗争に限定した視点からなされたものだったが、下部構造(員弁という民衆と宮木の調達という経済的なレベル)の問題が併存したことを認識すべきだろう。
敗れた物部の残党の一部は、祖神の一つである建御名方を祀る信州諏訪社に寄る。諏訪の洩矢神は守屋を祀るものと言われる。
そして員弁の本来の統括権は物部にあるとして御柱祭を盛大にして行った。諏訪上社の神苑には墨縄神社もあり、諏訪社と員弁の関係を暗示させる。また中世の諏訪社堂宇の改築の宮大工に守矢の名があるのも興味深い。
(伊奈や南信の員弁が王朝側に統合されて行くのは恐らく中世になってからではないだろうか?諏訪社が神仏習合になるのは他の地域に比べてかなり遅れ、鎌倉時代承久の乱の際に時の大祝が鎌倉方に味方し、諏訪盛重を名乗って以降のことだとされる。)
そして、その諏訪だが、古層の神である石神(第一層)に建御名方神(第二層)が重なり、その上に洩矢神(第三層)が被るという複雑な構造となった。
員弁の催す御柱祭はどの層で開始されたのかは未解明である。(因みに上記墨縄神社の四隅にも御柱が立っている。)
諏訪という地名が、実は添(ソホリ)であり、月氏の原郷でのソフル(足霊日)に起源があることを、「天孫族考」の中で繰り返し論じて来た。勿論それが韓族のソウルという観念の元に成った事も論じた。
また補遺の内で、韓半島に残る聖なる柱(蘇塗)信仰にも通底している事も縷々述べて来た。
タリム盆地は漢字表示では塔里木盆地と書く。タリムはウィグル語だというが、この漢字表記は、かつてその盆地で“ヒマラヤ楊(ポプラ)”や胡楊の高木を切り出して、日の神の依代として崇めた宗教行為に通じるものだ。
そういう依代の高木が塔里木と意識された物なのか。
タリムには異説として古チュルク語起源の語源説があるようだが、中国人がそれを塔里木と音訳兼意訳したところに意味を感じている。つまりそういう用字をする根拠があったのだろうから。チュルク民族がこの地域に南下したのはAD3世紀頃かと思われる。(それ以前にはこの広域を何と呼んでいたのか?月氏もタリムに近い呼称をしていたのか?)3世紀以前は月氏の残存部は匈奴の支配下にあったのだが、そうなっても集落には月氏時代由来の御柱が建てられていたのかも知れない。砂漠化はその後、4世紀からだとされる。
私は、このタリムというのは、ムはインドアーリヤ語系のアッサムとかシッキムとかの語尾のムと同じで、和語の野や原に近いニュアンスなのではないかと推測している。
アッサムの方で云えば、アサのアは否定の接頭辞でサ(もしくはサマ)は英語のレギュラーの意味に近いといい、アサで“非凡なもの”。そこでplainではない;起伏や谷のある土地がアッサムという地形を示す語なのだとか。
だからムが野や原に近いといっても、平原ではなく岡原というような意味合いにもなる。
西方アーリア語系では、英語の-ham (-ingham )や、仏語の-gne(ニュ)とか-ne (ヌ)に相当する。
月氏語的には太琉野(タリム)あたりで、琉はラーとかリ、ル、リュウで西アジアで太陽神を指す言葉である。(勿論「琉球」も同様である。また天孫族考で論述したように、日土ルドックからラダックという桃源郷の名になった。)
この依代の聖木は、太陽が南中する時に影が最も短くなる。その時に、祭日の民は、太陽神の足下に居ると感じる。つまり日足下=日下(ヒノモト)に居るという事だ。(→これが我が民族国家の名になった。)
この時、祭祀民が唱えるのがポプラー(称讃琉)という賛ではないか?(回教徒の“アラーアクバル=神の御名を称えよ”と同じだろう)という事にも言及して来た。
「ソフィル(足霊日)」は中国の古史書では「葱芘→葱茈」となり、それを継承した小月氏の末裔が蘇毗族と呼ばれた事も、天孫族考でしつこい程、繰り返して述べた。(足霊日はアーリヤ語的にはペディミル=パミール、漢訳語では葱嶺である事も。)
“月氏語的には太琉野(タリム)あたり”と言ったが、仏教的には“大日原”にもなるかと思われる。大日如来(サンスクリットで毘盧遮那)の君臨する浄土の事になる。
その依代である塔里木=御柱を引き出して立てるのが員弁に他ならない。だから員弁は下層構造に居る民でありながら、超上部構造=天界に通じる要素を持っているとも言える。御柱祭での柱用材の引き落としは、正しく引木=イナキそのものである。引木が猪名木部の名の起源だという事は補遺17 で解析して来た通りである。
員弁は本当に社会構造の縁の下の力持ちなのだ。
そして出雲族の管領であった物部宗家を滅ぼし、更に崇峻天皇を蘇我氏が暗殺して推古女帝を立てた後、摂政に就位した厩戸皇子は、あのいわゆる「十七条の憲法」なるものを宣言した。
その眼目は勿論、“以和為貴(和を以て貴しと為す)”。
これは令和の改元について触れた「天孫族考」の中で述べた様に、天山三族(和族、牛族=出雲族、宇族=秦氏)の中で、貴いのは和族=天孫族《事実上はヒノモトタケル日下建尊と誉田別=応神の子孫》であることを、全氏族が認めなければならない!という宣言である。
だからそれに続くフレーズが“ 無忤爲宗(さからうことなきをむねとせよ)”となっているのである。
「物部守屋の様に逆らってはならぬ。河勝の秦氏の様に、和族王家には従うべしという意味であることを認識せよ。」
これが、守屋討滅事変・丁未の乱の本質なのである。
員弁に関わる事象を契機にして、王権が確立されたかに見えたが、同じ和族を自称する蘇我氏があたかも“以蘇我為貴“という風に専横化し、間もなく中大兄皇子らによって起こされる乙巳の変になって行ったのだ。
そして丁未の乱に加担しなかった物部の一部族は、蘇我宗家が乙巳の変で滅亡後(かなりの時日の後に)「先代旧事本紀」を纏め、そこで物部側は、
“天孫族の先遣隊として大八洲国に派遣された饒速日という神格を創造し、物部もまた天孫族の一系統なのであるとの神話をも創設する”のである。
(だからといって、そういう和族の先遣隊的な渡来が全く無かったとまで私は云うつもりはないのだが。)