第8章 葱と天孫族
第8章 葱と天孫族
葱茈族とは?これまで暫定的に、「葱嶺(パミール)から茈羌(ジ?キョウ)までの;パミール高原から崑崙山脈南部高地にかけて蟠踞していた月氏の一部族で、葱蒜類:ソウジルイ(葱韮類:ソウキョウルイ)を聖草としていた民族」として来た。
でここで認識すべきは単に「葱の生える所だから葱嶺」なのではないと云うことだ。そこの原地名(月氏の言葉での名称)が、ネギの音を含むもので、例えばネギーラとかネギスタンなどと言った(取り敢えず仮にNeg××とする※)と考えてみよう。そこNeg××に生えている薬草だからネギやニラ、ビラ(=ビル→ヒル)とされたと考えられるという事なのだ。 (※例えばNegisophirustan辺りか?)
中国の葱嶺に対応して言えば、「Neg××高地」で、今はそれを現地語で何と言ったのかは分からないが、それがパミールと同じ地域を意味していた言葉だったのでは?とも考えるのである。
但し漢訳の際に、中国人は葱韮類の多い高地だからNeg××と言うのだろうと推理して、中国ではネギは葱:ソウなので、葱嶺と訳したのだろう。(これは意訳に当たる。)
(※比較としてネパールNepalの語源も考究してみる必要がある。
一応の由来説は、NE は"牟尼"(僧職)、PAL は印欧語の語素で"治める"。[pol→police都市国家のpolに同じ。]
ネパールはブラーフマン(婆羅門)の統治する国の意味か?と考えられる。Neg××のNegはNepalのNeかも知れない。)
いささか適例とは言い難いが、次の例を考察してみる。
「屋久鹿がいる島だから屋久島ではなく、屋久島にいる小型の鹿を屋久鹿と呼ぶのだ」と、普通は考えるだろう。
だがこれは逆で、屋久島の語源ヤクの由来は、古代語?でこの小型の鹿がヤクで、ヤクの多数いる島だからヤク島と呼ばれたとの説が有力なのだ。
ヤクの原義は龠、つまり古代の笛の一種である。島に多数いた小型の鹿の鳴き声が龠(ヤク)の音に似ているので、その鹿を龠鹿といい、龠鹿のいる島なので屋久島になったのである。
どちらが最初になっていたのかはなかなか分からないものだ。(大型の鹿はロクで小型はヤクなのか?とも考えられるのだが。)
天照の子とされる天忍穂耳はまた天忍穂根とも言うが、
これは天忍穂根耳で、ネミミはネミラつまり葱蒜族の御子神というが如きニュアンスだと思う。
そして天孫・邇邇藝尊のニニギとは瓊ネギで、二・ネギか?
瓊とは音読ではケイで、普通には紅玉を意味する。
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に【×瓊】玉。特に、赤く美しい玉。
「五百箇(いほつ)の御統(みすまる)の―の綸(を)を」
〈神代紀・上〉
ぬ【×瓊】玉。赤色の玉。
「―な音(と)ももゆらに、天(あめ)の真名井(まなゐ)に
振りすすぎて」〈記・上〉
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紅玉のように麗しいネギの尊がニニギである。この場合のネギとは、植物の葱そのものを言うのでなく葱韮族という王族名であろうか。古代中央アジア語でいうならパミール族に当たる、と考えられる。
意味訳すれば、高天原族に他ならない。言い換えれば天孫族なのである。
だから葱韮族の正嫡は根子で、大王の和名は大倭根子日子になる。
即ち太陽神の坐す所の葱韮族の子孫であり日の神の子孫という呼称なのだ。
これは、往古には、大和人の中で、自分たちの氏族名呼称はネギ乃至二ギと言うのだという伝承が微かに残っていたからなのだろうと推理している。
葱は、だから和人には神聖な薬草であり、またその花=葱華の形が、仏教の宝珠に似ていること(葱宝珠)からも神聖視された。葱華蓮は天皇が座る蓮台(輿)である事には既に触れた。
宝珠はバラモン教のチンタマーニで、この形状は、仏教だけでなく、イスラム教の尖塔の形状にも継承されている。
我が国では葱帽子を擬宝珠ギボシとも呼ぶのである。
(また古代中央アジアのスキタイの源流文化には、拝天信仰があり、北極星とその光芒を具象化した「黄金の柱」という柱状構造物があり、後世のモンゴル人にまで伝来した。この柱と北極星をモンゴル語でアルタン・ガダスと言うらしい。
「黄金の柱」の先端部は、あたかも葱坊主に見える!)
そして、この宝珠形の源流を求める研究の中から、上述までの葱韮族の理解と関わる以下の見解が導き出せる。
古代アーリア人の神官階級(インドでいうバラモン)を「マギ」と言った。マギの呪術から西欧でいうマジックの言葉が派生したと言われている。
そして、このマギの被る帽子が葱華に似ているので、植物葱の花(華穂=葱華)俗に言う葱坊主をまたマギと呼称した。葱坊主を華穂に持つからその植物自体もマギ→ネギと呼ばれたという解釈である。これがネギの語源であるとの説である。
葱坊主に似ているからネギ→マギではなく、逆にマギの被る帽子に似た華を付けるので、その草をマギ→ネギと呼ぶようになったと云う事なのである。
マギの被る帽子が何色だったのかを具体的に示す資料には行き着かないが、古代中央アジアでは緑色を神聖な色としていた。アフガニスタンにしか産しないラピスラズリの色が元だという。この傾向は、イランアーリア人に継承され、そこがイスラム化しても、今でもイランのシーア派のモスクには、緑色に着色されたものがあるという。
緑の帽子は正しく葱宝珠・葱華に見える。
この見解を取る人達にも小月支に葱韮族という部族がある事は知られていないので、目下のところマギと葱韮族とを結びつけた説は無い。しかし、もしマギが葱の語源だとするなら、葱韮族とはつまりマギ族即ち神官階級の部族だということになる。
古代中央アジアの諸民族では、アーリア人(印欧語族)だけでなく、所謂ウラル・アルタイ語族の諸民族にも、3階級制があった事は広く知られている。神官階級・戦士階級・庶民階級の3つである。
しかし実際にはこの下に奴隷階級(さらに下に賎民階級)があったので4階級制という方が妥当である。(賎民は階級の外)
印度アーリア人の伝統を継ぐヒンズー教では、カーストが今でもあり、それぞれバラモン・クシャトリヤ・ヴァイシャ・スードラの四姓(ヴァルナ)となる。
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この印度の階級については、仏教世界の思想に引用された。(といっても、釈迦の仏教はこの階層否定から出発するのだが。)
「正法眼蔵(1231‐53)」出家功徳には、
「たとひ毗舎・首陀羅なれども、出家すれば刹利にもすぐるべし」
毗舎はバイシャである。首陀羅はŚūdra の音訳=シュードラ。
刹利は刹帝利セッテイリ→ kṣatriya の音訳クシャトリヤである。
これらの用語は明治の知識人にも伝来していた。例えば、「プラクリチ(1932)」〈幸田露伴〉には、
「婆羅門種、刹帝利種(クシャトリヤ種、即ち王権)、
毗舎(ヴェーシャ、即ち商人種)、戍陀羅(シュードラ、
即ち農民、労働者種)の四姓が儼として認められ--------」
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だが、インドのカーストは、古代アーリア人の階級制が、相当にインド的に変化してしまっていた。例えば波羅門はインドでは、純粋に?神官を意味しており、王族は、例えば釈迦(ゴータマシッダルダ)の一族もクシャトリヤに区分される。しかし、古代中央アジアでは、王は最高神官でもあったので王族は専門神官とともにブラーフマン(バラモン)階級だった。そちらの方が原型?に近いだろうと思われる。
またクシャトリアもインドの様に戦士階級とは単純化出来ず、武官のみならず文官の高位者もまたクシャトリアだったのではないかと考えられれる。
毗舎も当初は農民・職人工人・商人まで含めていたはずだが、大商人が幅を効かせる時代に、インドでは農工民はスードラに落とされてしまう。(中央アジアでは交易商人の地位が高くなったからだ。)
そして更に下にチャンダラー(賎民階級)が意識化される。
ガンダーラに栄えたクシャナ朝は大月氏国の一分国であるクシャン侯国の発展であるが、このクシャンはクシャトリヤの意味では無いか?と考えられる。もしそうならクシャン朝でも仏教の守護神として牛頭天王のような黄牛に由来の神が祀られていたかもしれない?。
実際、祭事の際には、牛の供犠(生贄)があったという。
この古代文明に於ける氏族構造の三機能は、フランスの比較神話学者のジョルジュ・デュメジルによって詳しく考究されたものだ。祭司・戦闘・生産の三機能である。
しかし隷属階層については彼は明確化していない。
そこで私は、この4階層を神聖階級・貴族階級・庶民階級・隷属階級と呼ぶことにする。
その方が古代の原型に近いからだ。
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私は、天王族(小月氏族)の3部族、葱韮族・黄牛族・白馬族は、それぞれ神聖階級・貴族階級・庶民階級が中心になって構成された部族であると考えている。勿論、黄牛族・白馬族の王族は神聖階級の出(恐らく婚姻で葱韮族から迎えられる)で、葱韮族・白馬族にも戦闘・護衛部隊はいたであろう。
それらは葱韮族では黄牛族の傭兵(派遣、防人)中心であり、白馬族では指揮官のみが黄牛族貴族からの派遣で、実戦部隊は自前の民兵のような歩兵中心の兵隊だったのだろうか?と想像してみている。
☆ネギ(葱韮)は和族の聖草
いずれにせよ天孫族は自らを葱韮族:ネギ族と自称していた。そして、葱蒜韮を神聖植物としていた筈なのである。
允恭天皇の皇后になった忍坂大中姫が、幼時に母の屋敷内の庭園で韮(野蒜)を栽培していた事が書紀に出て来る。
これを通りかかった闘鶏(ツゲ)の国造が馬鹿にして嘲ったのを、姫が長じて皇后の位に就いた時に、昔の無礼を罰しようとした。闘鶏国造は「その小さな娘が高貴な生まれの人(応神天皇の子孫)であるとは知らなかった」と、低頭謝罪したので、死罪を許して身分を国造から稲置(村長級)に落として済ました、という。
これを「新羅神と日本古代史」の著者出羽孔明氏は、
「大和王権下の氏族同士でありながら、闘鶏氏と天孫族では異なった文化があった」と指摘している。
闘鶏氏は黄牛族(新羅)系部族で、忍坂氏は天孫族である。
忍坂は、三輪山南方の桜井辺りの平地であり、そこは(後世の)笠置街道が出ているが、その笠置街道が都祁山地に掛かったところが闘鶏であり、ごく近い地域である。その隣接地で、天孫族(葱韮族)と黄牛族(出雲族)の風習の違いがあった事。
それ以上に王族が庭園で葱蒜の栽培をしていた事が注目されるべきである。(今でも天皇が皇居の稲田で稲を育て、皇后が養蚕をされているのは、王族による殖産の“真似”事という呪術的な行為であるが、古代においては、王族は葱を自らの庭園に植えていたのだ!。)
ネギ族はマギ(神官階級)だった事の傍証として、中央アジアでのマギは集団の神聖血統を保持するために近親婚が奨励されたというが、これは、古代の天皇家の婚姻形態にも共通するものだ。
そして、天孫族即ち天皇家一族は、いつ頃からネギ族との自称を変えたのだろうか?
これからは私の全くの仮説だが、ネギ族を次第にニギ族というようになっていたのではないか?と考えている。
ニギとはニギタマ(和魂)という時のニギである。これは無論荒魂に対する概念である。自らの神の平和的な状態がニギタマ(和魂)であり、荒れた(怒った、祟る)状態が荒魂である。そして、常に荒魂の状態にあるのが荒神に他ならない。
荒神は時にはまつろわぬ者(不服従民)であったり、元の先住民(蝦夷)だったりするが、常に天孫族に敵対する者たちの神は“夷神”という。エビス神である。
ネギ(神官)の統制する事の出来る状態の神の“あり様”がニギ・和なのだ。
これは掌中に物を包み込んで丸く収めることを握るという表現にも繋がる。ニギの状態にした炊いた米(飯)はオニギリであり、これは仏教などの宝珠の形と同じである。
倭人の国が連合して出来たのが大倭であるが、これは出雲族(黄牛族)の統一王権=三輪王朝の国号である。それが継体朝以降に"大和"王権の表記になる。大和とはニギの大王国のことだ。ヤマト(山門?)の呼称が先ずあり、そこに倭人を統合する政権が成立した時に、ヤマトは大倭と表記された。(二字で熟字訓ヤマトであり、大がヤマで倭がトではない。)
その大倭が大和とすり替えられたのだろう。
倭の文字は中国王朝側から見ての卑称で、元来倭人がワレ(吾)、ワヰと自称していたのでワ人となったと言われている。
この事は、明治に新たに完全に領土化された蝦夷地を、松浦武四郎が、エミシがカイ(アイヌはその卑称か?)と自称しているので、北加伊道と命名する事を提案したが、結局命名会議の議長鍋島侯爵により、東海道・南海道などと揃えて北海道の名に決した事は有名で、それとよく似ている。
だから倭を雅字にするという事だけでなら、和でなくても、それこそ我や環(輪は三輪王朝に繋がるので無いにせよ)や羽などでもよかった筈だ。
また大倭と書いてヤマトと読ませていたので、なら大都や大宮などと書きヤマトと読ませてもよかった。では何故、わざわざ「和」の字になったのか? 和とはそもニギだったからでは無いだろうか?
厩戸王子の唱えた「和をもって尊しとなす」というのは、天王族(月支族)の三つの氏族が和合する事を強調しているようでいて、実は、和族つまりニギ族= 葱韮族の尊貴の優越性を含意しているのでは無いだろうか?
ニギは尊い。だから黄牛族や白馬族はニギ族に従って協調していかなければならない。それが和合、つまり和に合わせるという事なのではないだろうか?
このプライドは厩戸王から隋への国書にも反映された。
大倭が大和にすり替わった時に、ニギ族の呼称は、大なるニギ族=大和族に代わったと思われるのだ。
そして、王朝時代に更にそれは日本と書いてヤマトと読ませる表記になる。
日本の源流は、日の本=パミール即ち太陽神の坐す所の意味で、それを中心神として司祭する神職がマギ→ニギ・ネギ→禰宜と呼ばれる根拠になっていったのだ。
(もっとも聖武帝が恭仁宮に遷都した時に、大養徳と書いてヤマトと読ませているが、これは一種の万葉仮名で、その用字法の由来はよくは分からない。)
葱も国文では「祢木」と書いていたのだと言う。それは祢宜(禰宜)の発音と全く同じである。
また天武朝では、新たなカバネ(姓)の最高位として、皇族とその近親氏族に与えられたのが「真人」であった。一般的には、天武帝が道教に関心が深かったので、真人はその道教の仙人に相当する呼称だと理解されて来た。しかし私は、これも道教的な外見を取りながら、マギ人の意味が込められているのではないか?と疑っている。つまり朝廷の中で純粋な和族の高位者(神聖貴族)が真人(マギ人)なのだと。
こうしてもし和が和族=ニギ族の国の意味だとするなら、今回の新元号「令和」は複雑な感想を引き起こしかねない。
「和族と令す」或いは「和族と令らしめよ」との意味である。
徳仁新天皇は紛れもなく和族である。しかし琉球人は純和族ヤマトンチューではない!また従順な白馬族系の後裔は「その通りでよし」と思うだろうが、出雲族(黄牛族)系には「致し方なしと言えど納得し難い」ニュアンスがあろう。因幡出身(出雲系)の石破茂氏が、「令和に違和感あり」としたのもDNA的には面白い。
天平二年、太宰府の大伴旅人の屋敷に集った三十人ばかりの大宰府官人達の内には小監・阿倍奥島の名もあった。阿倍氏(安倍氏)は、佐伯氏と並び大伴氏に率いられた古代軍団の将の家柄であった。旅人は「長屋王の変」前に長屋王側だろうと疑われて、藤原氏によって太宰帥に左遷されていたのだが、その“令月”の梅の宴の後まもなく大納言に復して都に戻る。
阿倍奥島も同じく都に戻ったのだろう、最後には上野介にまで出世している。(上野は大国なので介が事実上の長官である。武蔵守などと同格になる。)奥島は、旅人の動向を監視する為に藤原氏が付けた目付役ではないか?
阿倍氏は聖武朝ではそれなりに権力中枢に居たように見える。天平三年旅人死去後の議政官補任では中納言阿倍広庭の名がある。
孝謙女帝も阿倍内親王であり、育ったのは阿倍氏に関わる屋敷だったろうか?(阿倍野にあった屋敷で育ったからという説である。)
その孝謙(称徳)は、後に弓削道鏡に入れあげて失政し、この教訓で、再び女帝が立てられるのは、遥か後世の江戸時代になる。
さりながら、その後旅人の息子である家持は越中守となって辺地に赴任させられている。平安朝になってからの大伴氏は、大の字を取って伴氏となり一時は復た大納言にまで昇る人が出るが、あの応天門の変で完全に失脚する。これもまた藤原氏の陰謀だとされる。
阿倍氏の方はどうなったのか?平安朝では活躍が目立たない。支族が陰陽師安倍となり細々と命脈を保つことになる。
「令月の宴」は果たして今の安倍氏には吉かそれとも凶の始点か?(いささか脱線してしまった。今の安倍氏は桜花の宴で事実上、表舞台から退いている。※その後邪宗がらみで暗殺されてしまった。)