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天孫族考補遺68「穂積臣と弟橘媛の橘について」
◯穂積臣の始祖・建忍山宿禰
穂積臣の遠祖は穂積建忍山宿禰であるとされて来た。
その子が大木別命と矢田稲吉命(稲吉は稲置か?) で、稲吉が成務朝に末盧国造に任じられたという。
(※系図上では矢田稲置を建忍山の兄弟とするものもある。架空の存在である大水口宿禰を実在に見せかけるための虚構であろう。)
矢田は谷田で肥前の佐賀・小城地域の北にある土地であった。また大木は(武雄の西方の)有田地域にある地名で、肥前鳥居で有名な古社の大木神社がある。(この神社の祭神は何と武内宿禰である。武内宿禰は大木別の主君である。)これらの存在が、武内宿禰をも含めて、すべて肥前〜東筑前にあったと思われる日下(久我)国:即ち魏志倭人条に云う狗奴国=日之下国に関わるものであるのを確認できるであろう。
矢田稲置が2階層上の国造に任じられたのは恐らく父親の建忍山が皇妃の父親になった功からであろう。
大木別の姉妹には、成務天皇妃の弟財郎女(オトタカラノイラツメ)と日本武尊の妃の兄(大)橘媛と弟橘媛の姉妹があった。(弟財郎女は仲姫だとされて来た。)
この姉妹の母即ち建忍山の妻の名は放橘媛(放は恐らく花で、放橘とは花橘の意味だろう;“柑橘の芳香を放つほどの美女”というのは考え過ぎか)だというが、これは兄・弟橘媛の名からの逆算的な附会かと思われる。
私は、この放橘媛こそが、実は世に云う宇佐の息長大媛であり、建忍山はその駙馬では無かったろうか?と推理する。
なお大木別の子が穂積真津で、これが穂積を名乗る初代だという。中国流に言えば、建忍山は穂積一族の太祖であり、大木別は世祖、真津が大宗。つまり真津以降が穂積臣なので、建忍山と大木別は未だ穂積氏では無かった。私はこの頃までは鈴器氏ではないかとした。
鈴器氏とは、宮中で鈴器を振って魔祓いや魂の励起をする舞娘を出仕させる(後世にいう)伴造であり、宮女や巫女を管理するのを職掌とした。
従って、この職掌の延長で、巫女でもある息長の女系との接触点があったのだろう。(後世には宮中の采女の管理を職掌とした采女氏も穂積の同族である。)
時に弟財郎女と弟橘媛は同じ人だという説を唱える人もいる。
成務と(孝謙朝に)後称される大稚足彦(大碓命)の妃になった弟財郎女とは、小碓命(小稚足彦=日之下武命)が双子の兄大碓を弑した後娶って自分の妻妃にしたと私は推理しているが、果たしてその後に弟橘媛と呼称を変えたというのだろうか?
一方で、成務=大稚足彦(大碓命)には、宮宰として同年同日生まれの武内宿禰がいて、彼は成務亡き後に、日之下武命の息子である仲哀に仕え、更に仲哀急死後は神功皇后に仕えたことになっている。恐らくこの仲哀=足仲彦は神功皇后(実は弟財郎女)を奪った日之下武命(小稚足彦)が兄の妻女まで奪ったことにしたくない後世の史家が架上した:つまりは架空の存在だと考えられる。
これらの事情を考えれば武内宿禰とは日之下武命と同一人物であるとしか思えない。
※財郎女の名は、巫女性を帯びた美形の貴女という点で、宝皇女(皇極天皇)を彷彿とさせる。)
なお、成務=大稚足彦と弟財郎女の間には和訶奴気(ワカヌケ)王がいたと古事記が記すが、この王子の消息は書かれていない。私は、武内宿禰が九州に派遣されている時に、武内宿禰に謀反の疑いがあると讒訴した(武内宿禰の弟とされている)甘美内宿禰(ウマシウチノスクネ)がその和訶奴気王ではないかと疑っている。この話はハムレットを想起させる。簒奪者の叔父が母を妃にしているからだ。
一方で武内宿禰は、神功皇后の九州北岸征伐に同行して、途中武雄で、神功皇后の妹であるという豊媛(淀媛、弟媛とも)を妻にしている。ということは、この豊の国から来たという媛が日之下武命の正妃である弟橘媛だということにもなる。(この事から、姉の神功皇后も近江の息長氏の姫ではなく、豊国=宇佐の息長氏の姫だろうと推理される。)この場合は、弟橘は伝承通り、大橘と弟財郎女の末妹だということになる。
さらに、小碓命の熊襲征伐の際に滞在したという北九州遠賀川畔の水巻宮では、そこにいた砧媛を娶って五男を成している。
(ということは小碓=日之下武命は水巻宮には足掛け4年以上は、滞在し放しではないにせよ、居たことになる。)私はこの砧媛の産んだ五男こそが、後世の武内宿禰直系の五大臣家の葛城・平群・許勢(巨勢)・紀・蘇我(石川)の家祖になったと考えている。
砧媛とは木+矛+ 冏=橘なので、大橘媛の事だと推理した。
これは天孫族考補遺59に詳述した。
>>橘の文字を字素で分解すると、木・矛・冏となりこれはそのまま読めばキムケイ(もしくはキムキョウ)だが、この音からの連想で砧の名が創作されたのかも知れないと私は考えた。
そこでこの姉妹媛の名前に使われているタチバナについて考察してみる。
◯橘について
橘は上古にヤマト世界に伝来したという伝説の柑橘類であり、垂仁朝に田道間守(たじまのもり=多遅摩毛理)が常世の国から求めて来たというトキジクノコノミ( 「非時香菓」=非時香木実トキジクノカクノコノミ)の事だという。
橘の実には九年母の異名がある。
田道間守に不老不死の妙薬を探すのを命じたと云う垂仁天皇は田道間守が帰国する前年、彼のことを九年間案じつつ崩じられた。九年母の語源はここから来ている。田道間守は嘆き悲しみ、御陵に非時香菓を献じた後殉死してしまった。この話を残す「日本書紀」には、非時香菓は橘であると注記している。
橘の語源は“立ち花“だとされ、家紋の橘は、花柄の上に垂直に立った花卉の図柄になっている。
異説に橘は田道間花(たぢまはな)がつまったものだというのもある。
垂仁朝は、記紀では日之下武命より3世代前なので、垂仁崩御の後にヤマトに伝来したというなら、日之下武の妃が弟橘という橘の名を冠することは、一応矛盾しない。
橘は花も実も香気が高く、寒暖の別なく青緑の濃い枝葉が常に美しく生い茂り栄えるので、これを長寿瑞祥の樹として重用されたのである。
古代には持統天皇が愛好され、仕えていた県犬養三千代に橘の氏姓を賜った。橘諸兄はその実子であり、橘奈良麻呂は孫に当たる。
ところで、田道間守が橘を求めに赴いたという常世の国とはどこのことなのであろうか?
これが、タチバナの原産地はどこかの究明に関わってくるのである。
というのは、橘(ニホンタチバナ)の原種の一つが、沖縄のタニブター(恐らく“種子太”の訛り)=今はリュウキュウタチバナと命名されているプリミティブな柑橘類:別名は琉球マンダリンだということが分かって来た。そういうと、「常世の国とはそうか沖縄のことなのか?」と早合点してしまいかねない。
しかし、琉球にはニホンタチバナは(植物園などを除いて)自生もせず栽培もされていない。タニブターは琉球列島がもしかしたら大陸や台湾も含めてアジア大陸の一部だったかもしくは分離開始頃かの地質年代:およそ200万年も前に誕生した古い植物だと考えられている。
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タニブター
synonym Citrus nobilis var.spontanea T.Itô
琉球諸島とその周辺の島々に自生する。別名は琉球マンダリン。大陸のマンダリン Citrus. reticulataに最も近縁である。最新の遺伝子解析により、約200万年前に琉球列島がアジア大陸から切り離された際に誕生した新種であることが発見された。沖縄のシークヮーサーや本州のタチバナなどの柑橘類は、タニブターとアジア大陸の異なる品種との交配種であると推定された。
タニブターはシークヮーサーに似ているが、実が小さくて酸味があり、マンダリンとは異なり有性生殖を行い、純粋な野生種のマンダリンである。
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しかしリュウキュウタチバナはやはり日本列島には存在しないので、気象や環境条件で琉球列島以北には拡散しなかったと思われる。
しかしその果実が黒潮に乗って日本列島へ漂着することはあったに違いない。
そしてこの漂着して芽吹いたタニブターは、他のタニブターが無い孤立環境だったので、元々複性生殖で(つまり他家受粉で)しか結実しないので、他の未詳の柑橘類:現在では大陸由来のマンダリンの一種と推定される:の花粉を受けて結実したのだが、そういうハイブリットがニホンタチバナの原生種なのだという。
ところがニホンタチバナは単性生殖つまり自家受粉で;云うところのクローンを作って増植(結実)するように突然変異したものが生き残ったものなのである。(恐らくこの橘の単性生殖はマンダリン側から受けた遺伝特性だと考えられている。)
一方で、沖縄のタニブターが、大陸から漂着したマンダリン類と交配して誕生したのが、あのシークワーサーだという。つまりニホンタチバナとシークワーサーは兄弟的な近縁種だということになる。
さてそこで、黒潮もしくはその分流が流れていて(タニブターが漂着し易く)かつ大陸からのマンダリンも漂着してくるところというのはどこになるのだろうか? ニホンタチバナは原則日本海側つまり対馬海流の流域には自生していない。(山口県の南岸・周防にはあるというがこれは瀬戸内海経由か。)
東九州の瀬戸内海沿岸、宇和海と土佐沿岸部〜紀伊半島〜三重、そして東海地域(北限は静岡県伊豆の戸田)にニホンタチバナが自生する。
しかしこの土佐以東の沿岸は、そこで原種が誕生したのではなく、誕生地から拡散した地域なのだと思われる。何故なら大陸からのマンダリンも漂着しやすい地域だとすれば、黒潮流域との二つの条件を満たす地域は、四国の佐田岬半島と対岸の国東半島以北の瀬戸内海沿岸部としか考えられないからだ。(上代には遠賀川の河口部は深く内陸に入り込んだ遠賀湾で、右岸の江川で洞海湾と繋がっており、また洞海湾も現在の関門海峡側だけでなく、苅田側の周防灘に抜けていた。だから大陸から流れて来たマンダリンが遠賀湾から周防灘に抜けて豊前に漂着するというのはあり得ることだと考えられる。
しかも田道間守が常世の国と認識するような文化の栄えていた地域であるとするなら、橘の原産地は豊の国即ち宇佐文化圏だと考えられる。
豊の国は息長大媛の居た国であり、また豊媛である弟橘媛の誕生の地である。橘媛姉妹の誕生地こそ、確かにニホンタチバナの自生した地域であるから、そこに生誕した媛姉妹にタチバナの名が付けられることは不自然では無いと考えるのだ。
穂積臣の大倭に於ける本拠地は、大倭国十市郡保津邑(穂積里)(一説には山辺郡穂積郷)だというが、これは穂積氏が神功皇后の東征に参加して奈良盆地に入って後の話であろう。
また遠祖の大水口宿禰と兄弟関係にあったとする物部氏や石上氏と同族とされるが、これはやはり大倭入りして後の何らかの都合上の(私は穂積=鈴器氏が、石上神社に鈴振巫女を供出するようになった事での結縁と推理する)擬制同族であろう。
◯大和河合の廣瀬神社の橘
奈良盆地では、大和川と曽我川などの九河川合流の地である「河合」(斑鳩丘の対岸地域に当たる)に、廣瀬神社が鎮座し、水神・若宇加能売命を祀るというのだが、この境内の橘の木が有名である。ここの神紋は黒い橘である。
由緒書きには、崇神天皇九年、廣瀬の河合の里長に御神託があり、一夜にして沼地が陸地に変化し橘が数多く生えたとの事が天皇に伝わり、この地に社殿を建て祀られるようになったと書かれている。
無論これは伝説である。しかも笑止の嘘である。何故なら、非時香木実(トキジクノコノミ=橘の実)を田道間守が求めたのは、崇神朝の後の垂仁天皇の御代ということになっており、しかもその木の実は垂仁崩御に間に合わなかったのだから、崇神朝に河合の里長(廣瀬氏の始祖)が橘の群生を目にすることはあり得ないのである。この段階では橘の実は不老不死の妙薬ということになっている。水神若宇加能売命は豊穣の神である豊受大神(伊勢下宮に勧請されている)の異体であるとされ、不老不死のイメージは多産殖産のシンボルでもあった。
◯追憶の香の橘
また平安朝の内裏では、右近の橘・左近の桜と称されて紫宸殿の庭前に植えられた。左右の近衛はその樹前に控えたのである。
古今和歌集の詠み人知らずの歌“五月待つ花橘の香をかげば 昔の人の袖の香ぞする”
によっても知られ、橘は追憶の代名詞にもされた。(この歌は伊勢物語にも、勅使となって逃げた女房と再会する男の詠歌という形で話のモチーフにもなっている。)
これによって橘の香りが追憶を呼び起こすという
だけでなく、橘そのものが追憶の形象になっているのである。