第13章 九州王朝の始祖は孝昭天皇ではないか?

第13章 九州王朝の始祖は孝昭天皇ではないか?

先に「孝昭→孝安→----景行→成務→日本武尊→応神が、

先応神朝即ち九州王朝である」と書いた。先応神朝の始祖

かもしれない孝昭天皇について考察してみよう。

孝昭の和名は“観松彦香殖稲(ミマツヒコカエシネ)”であるが、

これは“稚松彦岡江根耳”ではないかと推理している。

根耳は葱の事なので、岡江葱。稚いをミルイ(未熟い)という

地方があるのだ。稚松はミルイ松。松の稚木の事である。

稚松をミマツと読んでいるが、これは後の北九州の若松では

ないか?と推理する。岡江は洞海湾の“岡”の里の入江。(今の

江川。江川辺の岡の郷にあったのが岡田宮。岡は遠賀の

訛りだとも言われて来た。また稚松彦岡江根耳は、最初に

降臨する筈だった天照の子神・天忍骨→ 天忍穂根耳を連想

させる。(元は天津彦忍江根耳あたりだったのかも?と。)

と考えたのであるが、この稚松→ミマツという推定には、

稚がミ(ミチ)などの訓を持つ事を証明しなければならない。

稚はワカイとも訓じるので(獲加多支鹵が稚武であるように)

稚松→若松は問題なく推測できるだろう。

しかし、駿河焼津(図らずも日本武尊の伝説の地でもあるが、

それは全くの偶然)地域の方言とされる“稚い=みるい”と云う

のは、何処から来ているのだろうか?

海松(ミル)という藻がある。水松とも書く。

海岸の磯、岩礁に付着する藻だが、その葉が二又になって

いる様を松葉に例えて、海の松というのだ。

しかしウミマツはどう捻っても、ミルには訛らない。

もっとも、ミの方は水松と書いた場合は水をミと読む場合が

あるので、解析可能だが、ルの方は何であるのか?

海苔もそうだが、この苔を云う“リ”の訛形かとも思える。

つまり海藻の事であるのだが。

岡の松葉は硬いのに対して、海松の葉は海苔の様に柔らかい

のである。

そこで「海松い(みるい)」というのは、恰も海松ミルの如く、

柔らかである---------と云うところから、稚葉の様である

として、稚い=若い(葉)という風に転じた表現だったのでは

なかろうか?と推理するのである。

◯◯彦というのは、山幸彦や猿田彦・大彦の様な、属性を

表示する場合と、磐余彦の如く地名に因むものとがある。

観松というのはどう考えても属性ではなく地名だと思われる。

水松彦=ミル彦という場合は属性だが、これではまるで蛭子

の様な無様な表現になってしまい、王者に不適であろう。

そこで、観松を地名とした場合、そこは何処だ!と推定出来る

のだろうか?

ミルい松が生える所だろうとして、稚松→若松と考えた。

そして孝昭天皇には、もし架空の天皇だとしても、

孝昭ー>孝安ー>景行と続く王統の初源者のイメージがある

のだ。

つまり九州王朝の皇祖皇霊だとすれば、観松彦香殖稲は、

若松に最初に上陸した天孫族の首長の偶像化だったのだろう

と推理するのだ。九州王朝は遠賀川流域に版図を広げた王朝

だったと思える。これは天忍穂耳のイメージに重なる。

もっとも観松彦香殖稲という名称は、他のいわゆる欠史八代

などと言われる架空性の高い大王名の中で、異例とも言える

具体的な印象がある。

だから架空にしても、相当に根拠のある祖霊名なのではないか

と思われるのだ。

孝昭→孝安→----景行→成務→日本武尊(→応神)が、先応神朝

即ち九州王朝であると考えた。

崇神のミマキイリヒコイニエや神武のカムヤマトイワレヒコ

などの様に、事跡の象徴的表現の名称に比べて、

孝昭の和名である観松彦香殖稲というのは、恰も実在していて

もおかしくない程度に、具体的な響きがある。

御纒向入彦とか倭磐余彦が始祖的な名称である様に、

観松彦(稚松彦)も多分に始祖的な感じがするのだ。

稚松彦岡江根耳なら尚更である。(あくまでも私感だが。)

そしてここで、先応神朝(九州王朝)の大和への結節の環である

ヤマトタケルについて考察してみよう。

私説では、“景行の後継者成務は、弟の小碓命(=ヤマトタケル)

によって誅殺され、九州王朝はヤマトタケルが掌握していた

のだが、そこへ連合政権の棟梁であった巻向の三輪王朝から

一大率として仲哀(実は名前不明の垂仁の孫?)が赴任して来た

が、その合い方?としての巫女(ナギ)が、息長氏の姫である

息長帯日媛で、息長媛は仲哀を誅殺したヤマトタケル(九州

王朝内では武内宿禰)と婚姻して応神が誕生したのだろう”と

推理するのである。

世々、応神の父親は武内宿禰ではないかとの“疑惑”があった。

だがそれは、武内宿禰を単なる景行王朝の内大臣と捉える

からの“疑惑”であり、ヤマトタケルの子である(孫でなく)

と解釈すれば、疑惑は解消するであろう。

仲哀はヤマトタケルの子ではないのだ。しかし、息長媛

とともに、崇神王朝との一系性を装う為に、仲哀は小碓の

子でありその嫁が息長媛という仮装が案出されたのだ。

武内宿禰は成務朝の重臣であり奇しくも成務と同年だとの

伝承がある。また小碓は、父景行の命に背いた兄の大碓を

誅殺したのだが、一説にはその大碓と小碓は双子の兄弟で、

大碓は(景行の)三男で小碓は同年の四男だという。大碓小碓

両者同年の関係は、実は成務と武内宿禰との関係に近似して

いる。だから成務は大碓であり、武内宿禰はヤマトタケルで、

つまりは成務の弟、景行の子なのである。

そして大方の古代史家は、神武は架空で実は応神の大和入り

を神武東征に神話化したものだとしている。東征の具体的な

内容は、修飾されてかなり違って見えるのであるが。

応神の大和入りには、仲哀の遺児(応神の異母兄)達が抵抗し、

香坂王と忍熊王とが武力抵抗した事になっている。

(香坂王は既に三輪王朝の大王位に就いていたとの説もあるの

だ。そしてその後を忍熊王が継いでいたとも。実は仲哀とは

香坂王と忍熊王の弟だったかもしれない。いずれも垂仁の孫

であろうか?)

そして、これを攻略しようとする神功皇后と九州の豪族?軍団

は、一旦紀州側に回り込んで勝利を収める。これは神武が、

長髄彦に抵抗されて河内からは大和盆地に入れず、大回りして

紀州側熊野から南下して勝利した神話と相似関係になる。

また小碓と大碓の兄弟の争いは、山幸海幸の兄弟の争いの

神話の元になったのではないかと思えるのだ。

山幸彦(彦火火出見尊)の孫が神武で、神武の父は彦ナギサ・

母は玉依姫というのが日向神話に出てくるのだが、これは

ヤマトタケルの孫が応神で、応神の父は仲哀・母は息長媛と

いう構図になる。仲哀と同じで、彦ナギサの行跡は未詳に

近い。

彦ナギサは山幸彦の妻である豊玉姫が母であり、豊玉姫は

玉依姫と姉妹とされていて、豊玉姫は彦ナギサの成育を妹の

玉依姫に任せてしまい、その結果叔母の玉依姫と彦ナギサ

の間に神武ほかの皇子たちが生まれた、とされている。

しかし、これは応神がヤマトタケルの実は子であるのに、

孫と仮装した為に、神話上でも彦ナギサを案出して、モデルの

息長媛一人も、仲哀の皇妃を両道入媛命と神功とに分割した

如く、玉依姫と豊玉姫の二人に分割したものだと考えられる。

だから神話の彦火火出見は、ヤマトタケルの反映であり、

そうなるとその父たる景行は邇邇芸尊に想定されるのだが、

そう短絡的にはならず、景行(忍代別)の前にも(皇統譜上の

崇神-垂仁が居たように)孝昭・孝安の二人が想定される事は

先述した通りである。

孝安の和名は、日本足彦国押人といい、景行の大足彦忍代別

に繋がる。(忍代別も押人別なのかもしれない。)

そして、孝昭の和名は観松彦香殖稲(ミマツヒコカエシネ)で

これは稚松彦岡江根耳ではないかと推理した。根耳は葱の

事なので、岡江葱。稚いをミルイ(未熟い)という地方があり、

稚松をミマツと読んでいるが、これは後の若松ではないか?

と推理したのだった。岡江は洞海湾の“岡”の里の入江(今の

江川。)江川辺の岡の郷にあったのが岡田宮。岡は遠賀の

訛りだとも言われて来た。稚松彦岡江根耳は、最初に降臨

する筈だった天忍骨→ 天忍穂根耳を連想させる。

(別名が天津彦忍江根耳あたりだったのかも?と。)

若松と洞海湾を挟んだ対岸の黒崎に、神武東征伝説の岡田宮

があったという事で、天孫族=和族にはゆかりの土地である。

岡田宮は今の八幡西区の岡田神社ではなく、江戸時代に遷座

されるまでは黒崎西の一宮神社にあり、そこが神武の逗留地

だとされている。しかし古洞海湾はもっと広く、今の折尾域

から遠賀川の水巻町へ抜けていたが(この抜けている事をそも

洞海と言い、その痕跡が江川)、その若松側の海岸が小竹浜

であり、神武が上陸したのはこの浜だという伝承もあるので、

黒崎の一宮神社が本当に岡田宮の故地かどうかは分からない

---------と言っても、実際は神武は架空で応神こそが東征の

主役だとするなら、私は応神幼時の成育地は、その隣接する

水巻町にあったと想像される保牟田の宮と考えているので、

水巻から洞海湾への水道を抜けて畿内への移動をした筈だ。

だから、途中に小碓(ヤマトタケル)の兄たる大碓もしくは

稚足彦(成務)の宮居だったかもしれない岡田宮に一時滞在した

というのは地理的には不自然ではない。古洞海湾を通れば、

荒海の玄界灘に出ずして関門海峡に出られたからだ。神功

皇后の所縁らしい皇后崎という地名も洞海湾沿いに残って

いる。古洞海湾は今の小倉の南側を通る水路でも東側に抜け

たと推定される。

そして若松の地名の由来について、北九州市の広報では:

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「若松」という地名の由来は恵比須神社の『恵比須神社

縁起』に書かれています。

それによると、仲哀天皇と神功皇后が熊襲を征伐したとき、

洞の海に霊石を見つけ、これを神体としてまつり、神社の

海辺に小松を植えました。

このとき、お供をしていた武内宿弥が、「海原の滄瞑

(そうめい)たる、松の青々たる、我が心も若し」

(意味:松が一面にみずみずしい緑色をしていて、その向こう

に青々とした海が広がっているのを見ていると私の心も

若やいでまいります)と言ったことから、「若松」の地名に

なったと伝えられています。

また他に若い松が多い所だったので、この名がおこったと

いう説もあります。

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つまり、若松は神功皇后に所縁の土地であり、ヤマトタケル

・景行王朝に関係した地名なのだ。小松即ち松の若木であり、

稚松ということになる。

また孝元が開化の父という事になっているが、開化は二つの

王朝(崇神系と景行系)を結合する為に案出された祖先であり、

崇神系の祖先は孝霊と孝元であろう。それぞれの和名は、

大日本根子を共通に冠して、彦太瓊と彦国索である。

開化は稚日本根子彦大日日でやはり明らかに孝霊・孝元系の

名称である。

だから孝霊を素戔嗚としてみれば、孝元は大国主に相当し、

開化は事代主に当たることになるのだろうか。崇神朝が大神

として三輪神社に大国主を祀るというのは、祖先崇拝にほか

ならない。(出雲国風土記に登場する国引きの神話の主役で

ある八束水臣津野命は、大国主の祖父であるとの系譜がある

のだが、孝元の和名である“彦国索”とはまさに国引きの綱を

暗示するものだろう。八束水臣津野命は記紀では無視されて

いるので、大国主の祖先神の神話は全て大国主のものに統合

されてしまったのではないかと想像している。また開化と皇祖

である孝霊・孝元には共通の冠語として日本根子が付いている

が、これは記紀編纂時に、崇神→垂仁→景行を一系に見せる

為の操作だったと考えている。

何故なら根子は本来ネギ族=和族の通字であり、倭族連合の

黄牛族の崇神・垂仁にはマッチングしないはずだからである。

これは崇神・垂仁は後の出雲族では無かった! と見せかける為の

作為に依る。)

孝昭・孝安・孝霊・孝元・開化・崇神・垂仁・景行という

のが、皇統譜上の体裁だが、これは二つの王統、黄牛族系と

天孫=和族系をミックスしたものにされていると考えたのだ。

和族が応神の東遷によって畿内に進出した事が、神武東征に

反映されているわけだが、応神の場合は幼児であり、神功皇后

の大和征略と前後して武内宿禰に抱かれて畿内に達した。

あたかも武内宿禰は応神の父親代わりの様ではないか。

武内宿禰は、孝元の孫もしくは曽孫という伝説もあり、一応

皇族だから、仮に応神の父であっても男系男子継承の原則には

外れていない!という人もいる。しかし皇統譜通りなら、

武内宿禰は成務と同年なのだから孝元の五代の孫・玄々孫と

なってしまう。しかし、私の説のように景行の父が孝安なら

成務と同年の武内宿禰は孝安の孫に当たるのだ。で、武内宿禰

=ヤマトタケルなら、当然に(孝元ではなく)孝安の孫であり、

よって応神は紛れも無い天孫族の男系なのである。

そして、その後、大和朝廷で大臣の地位に就いたのは、全て

武内宿禰の子達であったとされている。葛城・平群・巨勢・

蘇我・紀の各臣がその氏族だ。もし私の推理の如く武内宿禰=

ヤマトタケルなら、大臣の各氏族もまた応神の異母兄弟系統

だったという事になって来る。

これが、河内王朝から飛鳥朝まで、大臣の各氏族が他に抜きん

出る権威を持ち得た理由だと思うのである。

仁徳は葛城の姫である皇后・磐之媛に頭が上がらぬ恐妻家

として有名なのだが、この背景には、葛城氏が武内宿禰の

権力の後継者であり、同父兄弟家である事情があったのだ。

そして、従来から仁徳は年齢が応神に近すぎて(四歳しか違わ

ぬという説もあるのだが)応神の皇子ではなく、弟ではない

だろうか?と言われて来た。

しかし、弟なら、誰の子なのか?既に仲哀は没して長いので、

仲哀の子ではあり得ない。これは応神を仲哀の子と仮装した

為に起こって来た現象なのである。実は仁徳は応神の同母弟

つまり母は神功皇后、父はヤマトタケル=武内宿禰だと推理が

出来る。つまり応神の全くの実弟であろう。

この事実があるから、ある時武内宿禰が九州に帰還し、再度

畿内入りするときに諸県の牛諸井という地方豪族の美姫を、

応神の妃にする為に連れ帰った時、仁徳がこれを先に見染め

応神に自分にくれと願い、すんなり許されてその姫は仁徳の

寵妃となったとの伝承があるのだが、これもあり得る事と理解

されるのである。もし仁徳が応神の子、或いは異母弟なら

そんな無礼は許されない筈だ。実弟だから許されたのだろう

と推理する。(但し、書紀では武内宿禰の大臣が九州からその

姫を連れ帰ったのではなく、しばらく遅れて召出されたと

されているのだが。仁徳は武内宿禰の存命中は、妃を多数

囲っており、その頃は正妃磐之媛に対する遠慮が見られぬ

艶福家である。これも武内宿禰が実父であり、応神が実兄で

あったから自由放縦が出来たのであろう。)

もっとも、応神の皇太子は仁徳ではなく、応神の実子であり

仁徳は禅譲されて?(実は謀議を巡らして、最終的に)皇位を

得た事になっている。応神→仁徳は親子継承ではなく兄弟

継承なのだ。仁徳の子の世代以降も、河内王朝は兄弟継承が

通常的になされている。

崇神系の三輪王朝を征服した神功皇后は応神の成人まで摂政

として垂簾の政を取ったことになっている。

その宮居が大和の磐余宮だ。応神も成人までは、武内宿禰と

ともにその宮に居たのであろう。だから応神を仮託した神武

の宮居も磐余宮にされたのだ。神武の諡号は神日本磐余彦

と言われて来た。宮居に因んだ名である。実際は応神の諡号

が神日本磐余彦誉田別だったのだと考える。

応神の即位後の宮居は難波の大隅宮だとされているが、その

場所は特定されていない。(武内宿禰と一緒に、九州の大隅に

ある離宮に行っていたという極端な説も出された。牛諸井

の諸県というのは、日向の諸県郡であり、大隅はその諸県に

隣接しているからだと言うのだ。しかし私は、この牛諸井の

根拠地は諸県ではなく諸方であって、それは宗像の事だと

考えている。武内宿禰は元来の本拠だった遠賀川〜洞海湾の

地域に行き、宗像の媛を見つけて帰って来たのではないかと

思うのだ。宗像の女神もまた巫女神である。第一、この時代

日向には牛はいない。)

応神朝では、任那への干渉出兵があったので、応神も北九州

の行宮に出張った事があったのかも知れないのだが?

その行幸は、記紀には現れて来ない。恐らく専ら武内宿禰が

北九州に赴いて、韓半島政略に関わっていたと考えられる。

応神朝には、百済も含め旧加羅地域からの帰化人が激増して

いるのだ。

ともかく、ヤマトタケル(和族=天孫族)と海人族系の巫女

(正確には、海人族と和族の両系のカンナギ)の息長帯日媛

とから応神が誕生した事は、神武が父・彦ナギサ(天孫族)と

海神の娘・玉依姫との間に生まれた王子だという形の神話の

元になったと言えるであろう。

崇神朝で神祀りをしていたという倭迹迹日百襲姫(箸姫)は

開化の子孫だとされているが、やはり息長氏の姫だった

のでは?とも私は考えている。(息長氏も開化の子孫だったと

されている。母系は新羅系という天日槍であるが!)

黄牛族でも巫はナギ族(和族の分族)から出される建前だった

のではないかと思われる。これは白馬族の国である宇佐でも

同様で、巫女は息長氏の同族だった可能性があると私は考えて

いる。だから、宇佐にも息長媛の伝承があり、その結果、

宇佐に住んだ事があったとは考えられない応神が最終的には

宇佐八幡の神になっているのである。

(神武が東征途上、母の故郷である宇佐の地を訪ねた事に

なっているが、或いは応神も畿内に向かう途中に宇佐に立ち

寄った可能性は全くないとは言えない。もしかしたら宇佐で、

武内宿禰の統率下、かつて景行天皇の九州征伐に従事した

和族の臣たちの軍団の再結集を図ったのかも知れぬとも想像

できる。もっとも一応、神功の東征軍団の集合地は、岡田宮

に近い陣原だったとされているが。)

先述で、「孝安の和名は日本足彦国押人といい、景行の

大足彦忍代別に繋がる」と言った。成務は稚足彦、仲哀は

足仲彦という和名になっており、これをタラシ系大王と呼ぶ

こともある。従来この足彦とは、“統治が行き届き満足な世を

もたらした御子”であるとの解釈があった。しかし、成務の

一時代はともかく、景行や仲哀の時代が、満ち足りる平和な

御代だったとはとても思えない。

だからこのタラシ彦というのは(足彦は日本書紀の表示だが)、

古事記の帯日子の方が妥当ではないかと思える。

つまり“天から降臨した(垂れた)日神の子”という意味合いだ

と思うのだ。だから息長媛もまた息長帯日媛となるなのでは

ないだろうか?(もっとも帯日媛の名の方は、“帯中日子”の妃

なので単に対語としての呼称かも知れない。恐らく息長帯日

媛には、別の本来の名があったと思われる。砧姫という名も

その候補である。但しこのタラシ彦という和名も和風諡号で

あり、実名ではなく、後世に帝紀などの編纂された欽明〜

推古朝以降に命名されたと考えられているのだ。

というのも、厩戸皇子が隋に送った国書に、「日本の王は姓を

天、名を多利思比孤」と記したとされているからである。

これこそ“天降りした日子”其の物であろう。)

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