「天孫族考」補遺5 月氏の周辺民族及び後裔;その1
「天孫族考」補遺5 月氏の周辺民族及び後裔について
補遺5 その1
☆月氏の周辺民族
月氏の各時代に於いての周辺民族との対立抗争・交渉史を
簡単なレジメにしてみた。
(1)月氏がパミール高原からタリム盆地に進出していた時代
中国の春秋戦国時代(BC3世紀まで)
蒙古ではBC3世紀の始め頃から匈奴が伸張
---------冒頓単于(BC3世紀末)までは友好関係?
インドはマガダ王国(BC6世紀末釈迦)〜マウリヤ朝
ペルシャはアケメネス朝(BC6世紀〜) ☆
→ BC4世紀末アレクサンダーの東征で滅亡
セレウコス朝シリアBC3世紀〜北にバクトリア、
東部にはパルチアが成立
(2)タリム盆地を巡る月氏と匈奴の交戦
(BC3世紀末〜BC2世紀半ば)
→月氏のタリム盆地退散(大月氏と小月氏、婼羌等に)
(3)大月氏国時代(BC2世紀〜BC1世紀)
中国は前漢時代
北アジアは匈奴の全盛期
ペルシャはパルチア王国が最盛期
小月氏は羌族に混住(青海路方面)
(4)大月氏国の南遷(〜バクトリア征服BC2世紀半ば頃)
チュルク族の南下に伴い大月氏国は南遷
〜4(そして5)つの分国(翕侯国)に移行(AD1世紀半ば)
AD1世紀始め中国は王莽の新→周辺民族政策の変更
→小月氏を含む羌族の反抗〜AD2世紀の後漢末まで
(5)クシャン朝ガンダーラ王国(AD1世紀半ば〜4世紀)
中国は後漢の時代
AD2世紀半ば〜ペルシャはパルチアを滅してササン朝
クシャン朝も征服されて属州となる→埋没
4世紀〜北インドはグプタ朝
(6)小月氏の動向と南遷(3世紀〜6世紀)
中国は三国時代から五胡北朝の時代
羌族は十六国時代に一時伸張→鮮卑拓跋族に圧倒される
6世紀〜突厥の拡大期
婼羌は南遷してアクサイチンからチベット高原へ
(7)月氏の後裔国(7世紀〜8世紀)
中国は隋唐時代
昭武九姓(タジキスタン〜ウズベキスタン)
※唐と連合して突厥に抵抗
象雄国(西チベット)と蘇毗(スンパ;東チベット)
→8世紀吐蕃のチベット統一で月氏系は埋没
以上のレジメを見れば、大月氏系は4世紀に、小月氏系も
8世紀には他民族の中に埋没して行った事が分かる。
また月氏がタリム盆地に在ったのは、BC4世紀以前という
昔であった。---------上述(1)
中国は春秋戦国時代であり、匈奴も蒙古高原に留まり、
また西南のペルシャ方面は、アケメネス朝が統一していた
ので、西域はパミールやタリム盆地も平穏であり、月氏が
各地に伸張して、都市国家や村邑国家を作っていたのだ。
恐らく、この時代のタリム盆地は、相互に同じ月氏の同族と
いう認識は持ち合いながらも、統一・連合王国ではなかった
と思われる。(周辺民族との抗争に備える同盟関係くらいは
あったかも知れないが。)
この原・月氏時代とも言える月氏の様態を伝える資料は何か
ないのか?と考えていた。
この頃既に文字資料を持っていた周辺の先進文明国は、やはり
アケメネス朝ペルシャであろう。
そこに、何らかの月氏の習俗を示す資料は残っていないのだ
ろうか?
そんな事を思っていた時、私の高校時代の後輩が、7年ほど
前にイランの古代遺跡を訪ねる旅に行った事を、同窓会誌に
書いているのを見つけたのである。
その文中に、アケメネス朝の首都であったペルセポリスの
王宮祭儀場の中の壁に彫られた「朝貢浮彫図」があり、
エジプトから中央アジアまでの23の属州属国からの朝貢使節
が描かれているとの話題を見つけた。
このレリーフでは各周辺民族がその服装や帽子や頭布等の
被り物・ヘッドバンドなどの風俗によって判別可能だと
いうのである。
この記事をきっかけに、このペルセポリスの浮彫図について
の文献を調べてみた処、これは西アジア古代史の専門家には
極めてよく知られたものであった。
以前、小林恵子という女性史家が、「聖徳太子は突厥の族長
であり、ササン朝ペルシャ皇帝の庇護を受けて、東北アジア
〜朝鮮半島〜日本列島へと渡来した」という仰天の学説を
出した事があり、これに刺激されて、興味を持って青木健氏
の「ペルシャ帝国」(講談社現代新書)という通史を読んだ。
だがその時は、ササン朝に興味の焦点があり、アケメネス朝
の方は一読した限りであった。
しかしそのアケメネス朝の解説には、幾つかの遺跡にある
レリーフ類についての言及はあったが、この「朝貢浮彫図」
についての言及は無かったと思う。
さて今回、高校の後輩(大村多聞氏)の指摘でそのレリーフの
事を知り、もしや朝貢国の中に月氏の国があれば、その習俗
や着帽の有無形状などが分かるのではないか?と期待した
のである。
だが残念ながら、朝貢した23の民族には、北のスキタイから
エジプトまでの西アジア各地の民族が在ったが、パミール高原
やタリム盆地に在った月氏は入っていなかったのである。
但し、この浮彫図を見て判明したのは、ガンダーラからの
朝貢者団(これは、遥か後世にはクシャン朝に支配される事に
なった地域だ)が、帽子は無くヘッドバンドの服装であるが、
貢物として背中に瘤のある牛(恐らく黄牛)を連れていた事
である。
クシャン朝は大月氏国の分国である貴霜翕侯国の発展した国
であるが、この貴霜というのは、私説では、クシャトリア層
が中心となって作った国の意味である。
だからクシャン朝は貴霜大月氏国と呼ばれる事がある。
最終的にはガンダーラを都にして、仏教が興隆したのは有名
である。
それがクシャン朝の時代より400年以上前に、ガンダーラの
地名は先に在った事と、どうやら既にそこは黄牛族の住む
地域になっていたと知れたのである。(そもガンダーラという
地名そのものが月氏語だという説もあるらしい。)
つまり月氏はパミール高原から北東のタリム盆地や青海高原
に広まっただけでなく、南西の今のパキスタン北部方面にも
黄牛族が進出していたらしい事になるのだ。
黄牛族はクシャトリア(戦士階層)なので、浮彫図の描写でも、
それらしい精悍な風体をしている。
私説では、ネギ坊主風の帽子(烏帽子、トンガリ帽子)を冠る
のはマギ・バラモン層なので、黄牛族使節が無帽なのは然り
である。朝貢に行く使節は、例えば我が国の遣唐使でも、最高
正四位程度の役職者であり、大臣クラスは行っていないので
仮にガンダーラにバラモンが居ても、それは高位の身分である
から、朝貢使節団一行には、烏帽子組が居なくても、それは
不思議ではない。
一方で、そういう烏帽子風(トンガリ帽子)の被り物をしている
朝貢団は無いかと探せば、その23民族中に3つもあったので
ある。もっとも尖った帽子はリディア(小アジアの西半;
アナトリヤ半島西部地域)の使節団であり、また烏帽子風の
帽子はバビロニアとスキタイの使節団も被っていた様だ。
バビロニアとリディアは、パミールとはペルシャを挟んで
東西に遠く離れているので、月氏のバラモンの様なトンガリ
帽子を被っていても、そこの民族のバラモンではなかろう。
実際に、リディアの烏帽子姿は、戦士でありその格好で戦闘
に出たとの解説が付されていた。
一方スキタイは、月氏と同じくイラン系(だが非ペルシャ系)
民族であり、それがトンガリ帽子を被っているのは興味
深い。またスキタイは常識では、もっと更に古代の民族か
と思われているのだが、それがアケメネス朝時代にまで残存
し、朝貢していたというのも面白い。
トンガリ帽子はどうも月氏の葱茈族だけでなく、西アジア
では、珍しくない形状の帽子であったというのが興味深い。
ところで、(7)に言及した月氏の後裔民族について、もう少し
考察してみよう。
→以下は、補遺5その2に続く