第17章(続) 第2節 出雲族について
第17章(続)
第2節 出雲族について
☆出雲とは元来何処のことか? (出雲の語源の推定)
「出雲」とは、元来は「出雲族」と後世に呼称される様になったある一つ(もしくはある核集団とそれに従属する集団が擬制的に同族とみなしあって纏まった人々)の氏族Kの住地である。
氏族Kが出雲族と呼ばれるのは、①彼らが首邑とした地域が“出雲”と呼ばれる地域だったから(但しその“出雲”は、後世の令制で云う山陰の「出雲」=出雲Aである場合と、
②令制出雲つまり出雲Aとは全く違う別の地域にあった出雲= 出雲Bである場合、とがある)
③出雲Bは出雲Aから来た氏族だったから
④出雲Bは令制の出雲=出雲Aとは全く違う地域(例えば越)
から来た氏族だったのに後に出雲Aに関係付けられたから
⑤始めに出雲Bがあって、そこの氏族を、和族が攻略後に
移住させたので、令制ではそこが唯一「出雲」つまり出雲Aとなった(元来は別の名の地域だった)から
---------などが考えられてきた。
私説では、出雲族とは元“月氏”の黄牛族で韓半島の辰韓や馬韓の一部同族が語らって、日本列島に渡来したもので、それが恐らく後世の出雲(つまり出雲Aだが)に相当する山陰の地域(長門の東端部須佐と石見から斐伊地方まで)と北九州の伊都(+加えて越の姫川流域など)に居住し、やがて山陰の部族がヤマトに入って建てたのが三輪王朝であろう、とした。
(即ち先述の氏族Kとは黄牛族だと考えているのだ。)
そして、北九州から山陰及び越までの倭人村落小国家を束ねて成立させたのが連合国家である“大倭”だと考えた。
この時に、首邑のあった纏向が倭妻(倭褄・倭津間、ヰヅマ、つまり倭の詰まった所の意味)と呼ばれたと解する。
即ちヤマト(山門)こそがヰヅマであり、その背後の宇陀から熊野の“ヤマ”国を含めた地域の雅称が出雲(出雲B)であったと考えるのだ。
九州に居た和族の応神王朝によって三輪王朝が倒されると、非征服者の彼らの一部は、斐伊地方への配流を余儀なくされたが、恭順して応神朝側に付いた部族もあり、それが物部氏である。斐伊地方に配流された一族もこの物部氏の従属部民とされたので、出雲西部から石見にかけて物部氏が分布する地域が見られる事になったのだ。書紀では、三輪王朝時代に出雲の反乱があり、その鎮圧に赴いたのが物部なので、西出雲から石見にかけて物部が残ったのだとしているが、これは書紀が出雲族と物部氏を概念上切り離そうとした作為と思う。
(最後まで反抗した三輪王朝の一族は伊勢から諏訪に逃れて諏訪に居た縄文族を併合して諏訪信仰圏を形成した。)
出雲Aは元は出雲という名称ではなく、西部が斐伊、東部が意宇といったが、“宍道の江”(神門から中の海を通り、境港と片江間の水路を通って美保湾に抜ける水道)の意宇側に江津間(末江)という港津があり、ヱヅマと訛って呼ばれた。これがヰヅマと通音の為に、この意宇と斐伊を併せた地域を“出雲”(つまりこれは出雲A)と(恐らく記紀編纂の前あたりに)呼ぶことにし、出雲族ではなかった意宇の豪族に出雲氏の名称を与え、三輪王朝の祀っていた大国主を鎮魂し封印する為に、斐伊の杵築に大神社(出雲大社)を建立して、その宮司として管理に当たらせ、またその出雲氏をして出雲全地の国造を兼ねさせたのである。新たな出雲臣には元来は別の氏族名があった筈だが未詳である。意宇の郡司宮向臣というらしい。
意宇臣宮向なのかそれとも宮向臣であったのか。出雲大社の社家である千家と北島家の伝承では、意宇の国造第十七世が宮向だとされ、宮向が出雲臣の名を賜ったその人だという。
斐伊に新造された大社の神主と斐伊意宇両地方=出雲国の国造に補任され、同時に従来通り意宇の郡司職も兼ねたのである。
要するに出雲とは元々は纏向を中心とした三輪山の辺りを意識した地名だった筈なのだ。
人麻呂の歌にある「雲立ちわたる」のも、後世弓月君に与えた三輪山の北の巻向山弓月が岳(斎槻嶽)であり、往古の出雲を暗示していると私には思える。
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「雲を詠む」と題する柿本朝臣人麻呂歌集出の歌。
雲を詠む
痛足川(あなしがは) 川波立ちぬ 巻向の 弓月が岳に 雲居(くもゐ)立てるらし (7・一〇八七)
〔穴師川に川波が立っている。巻向の弓月が岳に、
雲が湧き起こっているらしい〕
あしひきの 山川の瀬の 鳴るなへに 弓月が岳に
雲立ち渡る (7・一〇八八)
〔(あしひきの)山川の瀬音が、鳴り響くのにつれて、
弓月が岳に雲が一面に立ち上ってくる〕
右の二首、柿本朝臣人麻呂が歌集に出づ。
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川波立つというのは穴師川であり、その上流には、荒神社という三輪明神の荒魂を祀る神社があった。
応神朝では巻向から三輪山南東の長谷までが秦氏の頭領と目される弓月君に与えられたという。元来は出雲族の根拠地であったこの地に、秦氏を置くことで、和族の支配を側面強化する意図があったのではないだろうか。
実際に三輪山の南麓初瀬川沿い(今の桜井市)に出雲の字名が残っている。従来この字名は、奈良朝時代に出雲臣が都に出仕した時に住う屋敷があったからだという説明が為されて来た。実際に出雲臣の大和屋敷があったという記録には接した事がないが、もしそういう事実があったとしても、それだからここが出雲の地名になったというのではなく、そこが出雲の地であるから、出雲臣の屋敷を構えさせて、辻褄合わせをしたのではないかと疑われる。
そして、出雲Aを出雲と呼ぶ事にした時に、かつての出雲Bの存在をなるべく隠蔽し、三輪王朝を景行〜応神朝に一系として連結させる為に、倭妻・熊野を出雲の名から隔離しようとしたのである。
☆出雲と偽装された江妻/江端(妻は褄、津間・津末?)
妻とは詰まった所、端に当たる所を示す語である。
夫妻の夫も古代ではツマと呼ばれた。これは夫婦の一方の片割という意味合いで、両端・立ち並ぶ二者の片方という事なのであろうか。
ヤマトの出雲は倭妻(ヰヅマ)であろうと考えた。奈良盆地の東端に当たる。他方、南西側の葛城には朝妻の名がある。允恭天皇の和風尊号は男浅津間稚子宿禰尊であり、母君の仁徳皇后である石之比売(磐之媛)が大臣の葛城襲津彦の娘である事から、朝妻首と呼ばれた百済渡来人(葛城氏の保護下にあった渡来氏族の一つ。秦氏系とも言われる。とすると秦氏に因む麻だったかも知れない。)が壬生を務めたものかと推理される。
朝妻は、現在は御所市にあり、葛城川の支流南太田川が葛城山塊の一つ金剛山から流れ出る三角州と思しき地帯である。川の北岸は北窪という地名になっており、南岸は対称で南窪というべきだが、北窪ほどは山裾地ではなく、西からの緩斜面地である為「浅津間」の名で呼ばれたのかと思われる。
だが、奈良盆地の対する東端(纏向・三輪山から宇陀や熊野の山地、つまりヤマの入り口=ヤマト・山門)が倭妻である事の対称名かもしれない。
一方、出雲(先述の伝でいうなら出雲A)の語源である江妻とはどういう意味か?(因みにこの江はヱで、江妻はwed’maである。weの音が聞き取れず弱音化して、中国人が音訳したのが、魏志に記載された“投馬”である。)
弥生時代までは、縄文海進の余波で、今の島根半島は本土から穴道の江という水道で分離した島、おそらく“根の島”という名であった。何故、”根“と呼ばれたかというと、出雲神話では伊邪那美が死んで隠れた黄泉の国(根の国)の入り口である洞窟が口を開けていたからだ、という事にされている。
しかしながら、これは(元来は出雲では無かった後世の令制の)出雲国に大国主を封印する鎮魂の社である杵築大社(出雲大社)を設け、素戔嗚の来邦の故地であるとの筋立てに沿って、その素戔嗚が慕った母神である伊邪那美も集約化して、“亡魂の地”という観念付けを企図したものであろう。
だがこれは後付けであり、私は出雲族がやはり山陰から近畿へと移動して、一部は紀ノ川沿いに最初の拠点を設けたのではないか?と想定する。恐らく主力は大和川を遡上して、最終的に巻向山山麓へと到達し、その後宇陀や伊賀伊勢へ進出したのであろう。一方、紀ノ川沿いに進出した勢力は、吉野から熊野方面を征略して、いわゆるヤマの地域(紀州山地)全体を版図に収めたのであろう、と想定している。これが植林して木の国を作ったという五十猛の伝説に繋がる。つまりヤマとは木の国の山地の事である。
そして、想像上の出雲族の神聖樹で木の根に当たる(西洋流に云うならルーツになる)ので、この氏族の来邦の出発地が根=木の根の国という観念が生まれたのでは無いだろうか?
だから島根の根というのは、後世の付会だと思える。元来は別の名があったのでは無いだろうか?例えば佐太島とか一畑島の様な古名があったと思われる。だがその原名は不明なので、説明の便宜上は一応、根島と呼称しておこう。
この根島南西側は、現出雲平野が海面下であり(斐伊の水路)、今の穴道湖とそのまま繋がり“穴道の江”となっていて、松江市中心になっている松江城の南側もそのまま水道になって、中の海に連続していた。
つまり“穴道の江”海峡を成していたのである。江というのは、元来は、どこかへ深く湾入しているか、水路の接続しているかの、細長い可航水面をいう言葉である。
前者の例は私の住地である今は多摩川沿いの狛江である。
古代には、多摩川は青梅から武蔵野台地に流れ出した後、今の石神井川のルートを通って池袋の北部から王子に抜けて荒川=古利根川に流入していた。つまり隅田川は古多摩川の河口になるのだ。一方、現在の多摩川、即ち府中〜狛江〜川崎の流路は、八王子の南部を東流した後、府中から南転した浅川の流れだったのだ。そして今の二子玉川の台地の東側には、江戸湾に繋がる巨大な古千束湖ともいうべき汽水の入江になっていて、この江戸湾からの水路で外海船が着ける港が狛江であった。
その名の通り高麗人の移住させられた土地の上陸点でもある。高麗人の多くは、青梅を越えた日高の里に移住させられた。狛江は府中に置かれた武蔵の国衙のいわゆる国府津である。
狛江の場合は内陸へ深く湾入して水運の便に役立った地の例だが、恐らく大阪の墨江(住吉)も古河内湖への水路の入り口だったのだろう。
(鯖江なども俗説の“佐波之矢が降ってきたが矢羽が鯖の尾に似た形だった”などという話は滑稽で信用できない。日野川・足羽川〜九頭竜川本流〜油坂峠の舟越で美濃郡上地域〜長良川〜木曽川という、多氏東征の内水路交通との関係が疑われるからだ。)
一方で、穴道の江のような水路は、北九州の江川〜洞海湾が代表例である。この二つは東西の水路である横江であるが、南北の水路として有名なのが、江の川と氷上の水界である。
江の川は山陰側江津から入って、三次で二方向に分かれる。南西側は太田川となって広島湾に抜けられ、南東側は芦田川に抜けて鞆浦へ通じるのである。三方向への水利の地だから三次なのだ。
氷上の水界は分水嶺が丹波盆地の低い地にあり、北側への水流は由良川となって宮津湾に抜け、南側へは加古川へと通じていて、これも瀬戸内海へ抜けるのである。
古代の小舟は上述二つの水路を使って、日本海側と瀬戸内海側を往来できたのである。
さて、穴道の江の水道の中海側の水路の津間(端)に当たるのが江妻であり、末江即ち後世の松江なのだ。
古代の斐伊の国から意宇の国へと繋がった水路があったのだ。
荒海の日本海にあって、安全な航海の保証された根島の南の横江は貴重な地形であった。だから江妻は重要な港津だったのである。
☆出雲族とは? 素戔嗚と五十猛
(出雲族の出自 牛頭方か伊西国か、
牛頭方は馬韓北東部の村邑、伊西国は新羅の隣国)
しばしば、出雲族は新羅からの渡来と言われて来たが、新羅は辰韓諸国の内の斯羅が、百済と争って朝鮮半島の統一に乗り出してからの国号であり、出雲族の渡来はその斯羅からのものとは考えにくい。むしろその斯羅と辰韓の統一を争った斯羅周辺諸国からの者が多かったのではないだろうか?
その代表的な国が斯羅と隣接していた伊西国である。また斯羅より北方の対百済戦線に位置していたのが牛頭方(ゴヅホウ)で、今の江原道(カンウォンド)春川(チュンチェン)?辺りの地方名だという。ここは元来は馬韓〜百済に属していたのだが、「新羅が百済から奪って新州を置いた」ということが、「三国史記」に載っているようだ。
牛頭天王は素戔嗚の異名だから、素戔嗚は新羅から来たのではなくて、新羅に併合された牛頭方から渡来したとも考えられるのである。またその時に、その子弟?である五十猛を伴ったという伝承があるわけだが、五十猛は五十国(伊西国)の王族と思われるので、伊西国は牛頭方の分国か兄弟国であったかとも推理される。(伊西国については後述する。)
江原道方面からの日本列島への渡来ルートは、対馬ルートや沖ノ島ルートではなく、朝鮮中部の海湊である後津(フジン):今の東海(トンへ)から鬱陵島→竹島→隠岐→出雲へという隠岐ルートがあったといわれ、牛頭方からの素戔嗚一族はこのルートで渡来したと思われる。伊西国の五十猛一族は、これと呼応して、わざわざ北部の江原道まで行って素戔嗚の船団に加わったのか?それとも彼らは同じ時期に示し合わせて沖ノ島や対馬ルートで、石見や伊都に渡来したのか?
これもよく分からない。
伊西国も統一戦争のごく初期に斯羅に征服されてしまうので一旦北部へ逃れて牛頭方族と合流した者もあったのかもしれない。ただ伊西国の遺民が、加羅防衛戦に渡海した葛城襲津彦らと一緒に対新羅の戦いで相当な戦果を挙げ、一時は新羅の首邑である慶州まで攻め上ったという伝承もあるので、この伊西国の移民は、加羅諸国に亡命していた伊西国人か或いは旧伊都国人だったかもしれない。(私説では、この頃は伊都国は葛城襲津彦の支配領域となっており、応神王権の一大率は正しく襲津彦=率彦が担っていたと考えるのだ。だから旧伊西国人は襲津彦の配下に入っていた筈である。)
☆辰韓の伊西国とは? 冉奚国
多くの識者が、辰韓の斯羅(後の新羅、今の慶州)の西に伊西国という都市国家があって、斯羅の辰韓統一に反抗していた事を指摘して来た。
そして伊西国は新羅によって滅亡に追い込まれた事、
新羅が南韓の弁辰加羅諸国にまで征略の手を伸ばして来た時に、倭国からの救援軍が対新羅戦に及び、その際倭に呼応した伊西国軍が新羅の首邑である慶州の城外にまで侵攻した事件があった事(この時に幻の竹衛軍の伝説が生まれた)などが挙げられている。(これは、韓半島の古代を記述した三国史記だけでなく、日本書紀にまで言及があり、ともかく伊西国という城邑があって、倭と同盟した事は、かなり確度の高い史実だと思われる。)
ところが、この伊西国、三韓の内容に触れた中国の史書にはその名では登場しないのである。
辰韓十二国の内、斯羅の南西(今の蔚山広域市側の)「冉奚国」zenkei-koku がその伊西国だという識者が多い。しかしその位置的な関係以外に、何故その中国側が「冉奚国」と認識している城邑が、伊西国に相当するのかについての説明はほとんど目にしたことがない。
そこで、ここでその「冉奚国」が伊西国だという話を検証してみたい。
というのも、伊西国の住民なのか遺民かがわが国に渡来し、古くは石見に来たという(また出雲神話の素戔嗚の弟とも子神とも言われる)五十猛の伝説であり、その子孫の一部は紀州に来て植樹をして木氏(紀氏)の祖神になったという伝承の存在、
また一部は筑紫に入って五十迹手となり、それが開いた国が伊都国だという伝承がある事、-----など上古の歴史に深く関連があり、その究明は古代史上極めて重要であるからだ。
また直近では、Facebookの古代史研究会のフォーラムで、岡上祐氏が、伊都国こそ古代巫女王である卑弥呼出自の地であり、伊都国こそが天孫族によって建国された都邑だと主張していたりして、糸島で発掘された平原女王墓とともに古代史ファンの大きな注目を集めているのである。
それで五十迹手と伊都の地名、そしてそれが伊西国とどういう関係にあるのかも考究する必要があろう。
それで先ず「冉奚国」である。この「冉」zen という漢字だがこれは”整斉として行くこと“を意味している。もっとも「行」の字自体が、行人偏で複数の人々の列を暗示し、それが駅逓標〒(わが国近世の里程標や道標に当たる)の前を通過して行く様を表意している漢字なので、行は冉にも繋がる。
そして奚とは足偏の付いた蹊と等しく小路を意味する。(蹊は成蹊の蹊である。但し獣道の様な隘路というのでなく、わが国の往還や街道に当たるだろう。)
つまり冉奚とは、街道を人列が整然と行進しているという様な意味合いになるのである。
ところで、韓国の地名索引では伊西と引くと、慶尚北道清道郡伊西面がヒットする。面は日本の村に相当する。郵便番号もあるようだから現代の地名でもあるようだ。
(谷川健一氏が言ったように、地名は古代史の宝庫だと思う。)
その清道とは、我が国の神社の清道という名が残るので(有名なのは博多山笠の走る櫛田神社の参道が清道である。)あちらでも元来は何か宗教施設の参道に相当したのかも知れない。
清道はjimdo である。この「清道」という熟語は「冉奚」に当たるだろう。どちらが先に在った言葉かは不明だが、いずれにせよどちらかが他方を意訳したものであろう。
冉奚は斉蹊の意味になる。或いは斎蹊か?
(現代の韓国での清道の読みはchjondo というらしい。)
清道jimdo,seido →simdo,siido →(語頭sが無声化し)
imdo,iido→ido,ito と転訛して、怡奴、伊都となったと考えられる。
何故なら、魏志で怡奴が奴という卑字を用いているが、冉奚の奚の文字は奚奴という熟語があり、奴隷を指す文字だからだ。
これまでで、伊都は清道に由来する事は分かった。しからば伊西はどう関わるのか?
伊西isei,izei,imzei →isoi,itsjei,injui →iso,itoi,itsjuu →五十と転訛して、五十迹手が伊都に繋がるのである。
(五十は五十鈴isuzu ←iso-suzu、
五十嵐igarasi←iso-ga-arasi
で、しばしば五十の十(so )が脱落してイだけになる。)
これで清道郡伊西面が伊西国の旧地だった事はほぼ確認できたし、伊都国は多くの識者が言う様に、伊西国の渡来人が建てた国邑だという蓋然性は高い。
しかし、伊都国=伊西国が天孫族の故郷であるという事には同意し難い。
というのは、この清道郡伊西面は有名な闘牛の行事で知られており、やはり牛族の民(辰韓の多くの国々と同様)で、黄牛をトーテムとしていて、和族(天孫族)とは異なるからである。
日本海側の闘牛は隠岐→山古志(越)に伝来しており、牛族即ち出雲族系の習俗だと想定されるのだ。
新羅の習俗に、牛を供犠にする宗教儀式や、あるいは闘牛の類があったかどうかは未詳である。
しかし、新羅を滅ぼした後世の高麗国や、その後を請けた李氏朝鮮の王族が弓道の的にした黄牛顔の図柄は、高麗の敵だった新羅のトーテムが黄牛だった事を想起させる物だったのではないか?と、私は想像している。
もし狩の獲物を的に使うというのなら、家畜である黄牛などは使わず、熊とか鹿とか狼など野生動物を用いたはずである。黄牛の顔は敵視の対象だったからわざわざ、弓の的になっているとしか考えられないのだ。
出雲族である土師氏の後裔である菅原氏から出た道真は祟り神となって天神と呼ばれたのは周知だが、天神には牛の伝説が付き物である。無論、太宰府で客死した道真の亡骸を載せた牛車がそれ以上動かなくなった所に太宰府天満宮の社が建立されたという伝承は余りにも有名で、これが各地の天満宮に撫牛が置かれている由緒になっている。
☆伊都国の一大率と太宰府
伊都国は大倭連合国家の一大率として大倭の大陸外交の拠点になった。私説では、大倭連合国家の中核が畿内の三輪王朝である“ヤマト大倭(オオヰ)=邪馬臺”国であり、筑紫島の支配代官即ちそれが“一大率”で、その駐箚と対中外交窓口を担ったのが伊都国だったのである。
一方、壱岐島は中国の史書には一大島という表記で登場する。従来これは“一支”の書写間違いだろうとされてきた。支と大の両字の形が似通っているからというのである。しかし、そんな誤りが起こるものだろうか? 大体、一支はイキと読めなくは無いが、一大の発音はイキとはかけ離れたものであった筈だ。
私は、これは一大支島で、一大率の出先(支所)の置かれた島の意味ではないかと解するのだ。対馬の方が、韓半島には近いが余りに近すぎて、もし敵襲があればひとたまりも無い。だから対馬と唐津・伊都との中間の壱岐に一大支が置かれたのだ。
実際、元寇の時も、太宰府に一報を入れたのは壱岐島守だったのである。対馬は相当に抵抗を続けたが、本土に報告しているゆとりもなかった。
ところが、肥前〜筑後を版図とした日下国(狗奴国)に伊都国は征服され、日下国の棟梁である日之下武(武内宿禰)はその子の葛城彦を一大率に任じた。武内宿禰が応神天皇を奉じてヤマトに東遷後も、和族の一大率は葛城彦が務めた。葛城襲津彦の名はそこから生じたものと思われる。襲津彦が対新羅戦役に渡海した時に、旧伊都国の民は、新羅に滅ぼされた伊西国の兵となって従軍し奮戦した。伊西国とその分国の伊都国は出雲族の国であるが、この時は和族の葛城襲津彦の配下に入って闘ったという事になる。
襲津彦が、武内宿禰の大臣の役目を継承して大和に遷ると、一大率は、中部九州に東西に蟠踞していた多氏が代官となり、伊都から筑後の大野郷に移される。太宰府(大野城)は太氏がミコトモチ(宰)をする府城の意味合いである。
☆出雲族の王族の逃亡地が諏訪 辰韓の蘇塗と御柱
三輪王朝が応神の東遷(実際は神功皇后と武内宿禰の東征)で征服された時に、物部氏の様に和族に帰順せず、東方の毛地に逃亡して、地方政権を樹立したのが諏訪の建御名方である。
建御名方(建南方の名は、紀州熊野に由来する名か?)は諏訪の神となるが、諏訪神社ではその後も長く御柱祭が続いて来た。
この御柱祭は、辰韓の黄牛族の祭天儀式の場である蘇塗の立竿に由来すると言われて来た。
また善光寺は、一説には秦氏や百済系の寺だというのだが、諏訪信仰圏の延長下にあり、これが“牛に牽かれて善光寺詣り”という俚諺を生んだという人が居る。諏訪信仰の根底に黄牛族(出雲族)の習俗が潜んでいるというのだ。真偽の程は確かめることは出来ない。
王朝〜中世には、記紀によって、和族が大陸渡来人である事は隠蔽され、従って出雲族も何処から来邦したのかが曖昧にされたのである。僅かに今来の一族が多数いた秦氏だけが、明確な渡来人・帰化人の仲間とされたのである。
(それ以外の帰化人は、百済や高句麗からの紛れもない亡命人である。)